「ま、じか」
自室のベッドに腰掛けたまま、一二三は思わず呟いた。誰もいない部屋だ。誰が聞くこともないその声が向けられたのは、スマホに表示されたメッセージアプリの画面である。
“ごめん、明日無理になった”
砕いて尖った氷を呑み込んでしまったみたいに、一瞬で心がひゅんと冷えるて、痛い。
「まじか〜!」
明日のためにがんばった。明日のためだけに今日明日明後日の三連休にしていた。そのための連勤もした。お気に入りの服にアイロンもかけた。朝食だってこれから、いつもよりちょっと豪勢にできるよう準備もするつもりだった。
ぱたん、と背中をベッドに預けて、じっと眺める天井は、今にも涙で滲みそうである。
本当、便利な世の中になったものだ。こんなメッセージアプリで、顔も見せずに謝罪なんて。ちょうど一二三がスマホをいじっていそうな時間に連絡をよこすのだってずるい。家事や掃除で忙しくしている時間に連絡をくれれば、速攻で既読をつけてしまうこともなかったのに。
まるでご機嫌を伺うかのように、つい先日一二三の教えた無料スタンプのがポン、と送られてくる。情けない顔のクマがシュンとした顔でごめんね、と謝っているけど、じゃあ許してやろうという気分にはなかなかならない。
「え〜、どうすっかなぁ」
ごろん、と寝返りを打ちながら、キーボードをタップする。”マジか〜!でも仕事なら”まで打っては消して、”ひでぇ!俺っちめちゃ楽しみに”まで打ってはまた、消して。自分の気持ちを正しく伝える言葉が思いつかない。
本当は、今すぐ電話して、できない約束なんかするなって、文字ではなく声で怒りたい。それで、そのままスマホの電源を消してしまいたい。なんだか自分ばっかり楽しみにしていたみたいで、アホらしくて、バカみたいで。
(仕事と俺っち、どっちが大事なの?なんてね)
でも、できない。したらきっと後悔する。(仕事頑張ってるどぽちんにひどいこと言っちゃった)なんて悩んで、スマホの電源はすぐに入れてしまうだろうし、連絡と帰宅を待って眠れなくなるのもわかっている。
どうしてだろう、どうしていつもこうなるんだろう。もう期待はしないといくら言い聞かせていても、一緒にいられる時間が何時もより長いのだけで少し、浮かれてしまうのをやめられないままだ。何年経っても。
「しょうが、ないなぁ」
自分を慰めるように、出した声は思っていたより震えた。意地悪なのは独歩じゃなくて神様なんだって、そう思うしか、この夜を超えてはいけない。
こんなとき素直に泣けたらいいのに。店に通う女の子たちみたいに自分の感情に素直に、自分のことだけみていて、なんて。
「ま、いつものことだしね」
泣き叫んですがりついて、でも、その後どうなるんだろう。困らせて、疲れさせて、鬱陶しい、面倒だって思われるくらいなら、自分がちょっと我慢すれば、明日も一緒にいられるし。
結局一二三が選んだのは、独歩が送ってきたのと同じシリーズの、おつかれのスタンプと、りょ!の一言。多分これでいい。これなら独歩は変に気を使わずに、自己嫌悪もせずに済む。
スマホの電源は消せないけれど、暗転させて、少し遠く、ローテーブルに置く。ベッドサイドに置いておくと、返信に気がついてしまうから。
多分大丈夫、傷ついてない。傷ついてなんか。
「っふ、」
泣きながら眠るとまぶたが腫れて顔がダメになるけど、明日休みだから別にいい。早めに風呂を済ませておいて良かった、なんて無理やりなポジティブ。
おかえり、も、いってらっしゃい、も、きっと笑顔では言えないなら、疲れたふりして眠ってしまおう。きっと明日の夕方ごろにはいつもみたいに笑えるから。
「ばか、どっぽ、きらい」
だからどうか、今だけは、嫌いでいさせて欲しかった。
「……み、ひふみ」
呼ぶ声が聞こえて、意識が持ち上がる。もう朝?と思いながら浮上する意識と一緒に上げようとした目蓋が重だるいので、昨夜のことをばんやりと思い出してしまった。うんざりした気分でスマホを手探りするといつもあるはずの場所にはなくて、そういやテーブルに置いたんだっけ、と思い出してまた凹んで。
「おい、起きたのか?ひふみ、」
寝返りを打って、うっすらと開けた目。
瞳に映る人は本物だろうか?それとも幻?
「……目、真っ赤じゃないか」
「ど、っぽ?」
一二三が独歩を叩き起こすことはあっても、その逆はなかなか珍しい。ベッドサイドに腰掛ける独歩のその首元には緩んだネクタイがぶら下がっていて、肩でジャケットの襟がよれている。
「え、いま、なんじ?」
「……1時」
てっきり昼の、かと思ったひふみは、そんなに寝たのに疲れが取れていないのかとがっくりしてしまった。だってまだ、独歩に笑顔のおかえりは言えない。
「おれっち、おきたほうが、いいの?」
寝起きの掠れた声は低くて、自分でも聞き取りにくい。不機嫌な顔を見せたくなくてもそもそと布団に潜るのに、独歩にそれを邪魔されるから、布団で腕で覆って、顔を隠す。
「いいじゃん、おれっちは、やすみだし」
このままだと、きっとたくさん嫌なことを言ってしまう。その前に、ここからいなくなってほしい。
「どっぽはおしごとあるでしょ」
ちゃんとおかえりを言う支度くらい、ゆっくりさせてほしいのに。
「すまんひふみ、今は深夜の1時だ」
「はぁ?」
うっかり大きめの声が出た。深夜一時になぜ起こすのだ。それも、人の部屋に勝手に入ってきて。些か腹が立って独歩を睨みつけるとき、ようやくそこで目があって、やっぱり少し悲しくなった。
「……」
無言で寝返りを打とうとしたのに、胸元に額を預けられて身動きが取れなくなった。
「おまえが変に聞き分けいいときって」
独歩の使うプチプラの整髪剤の香りはあまり好きではないのに、独歩の匂いと混ざると嗅ぎ慣れて嫌と思えないのが嫌だ。
「無理してるだろ」
でもまさか泣くとは思ってなかったよ。ため息と一緒にそんなことを言われると、浮腫んで乾いたまぶたの奥からまたこみ上げる熱がある。
「なぁ一二三、俺だって、楽しみにしてたし」
ジャケット着たままベッドに来るなと何度言ったらわかるのだろう。甘えるように抱きしめられるとき、独歩の疲れた匂いがした。
「埋め合わせは、したい、と、思ってる」
信じたらまたきっと傷つく。わかっているのに心は言うことを聞かずに期待して喜ぶ。
すまない、と言いながら一二三の首元に鼻を寄せて息をする。匂いを嗅がれている気がして身を捩ると、抱きしめる腕の力が強くなった。
「ね、どっぽ」
まだ笑えない。目の腫れはそう簡単には引かない。
「あと30分、待っててやっから」
明日はきっととても寂しい。でも。
「お風呂入ってきな、一緒に寝よ」
もう、嫌いでは、いられなくなってしまった。
(も、やだなぁ)
独歩はむくと起き上がって部屋から出ていった。きっと髪もろくに乾かさず、15分程度で戻るだろうという一二三の予想は当たるけれど。
この後、独歩が目蓋を冷やすための濡れタオルを持ってくることまでは思いつかないまま。
(すき、だなぁ、)
一二三はもういちど、静かに少しだけ、泣いた。
「ふぅ、」
一通り揃ったとりどりのおかずをダイニングテーブルに並べ終えて息をつくと、はかったように炊飯器が鳴る。
時計を見ると、もうすぐ18時。
(がんばれ独歩ちん)
会社の都合とはいえ、前々からの約束を反故にしたことは、独歩なりに反省しているようで、昨晩は一二三の髪をいじいじといじりながら色々なご機嫌とりを提示してきた。できるだけ早く帰る。夕飯は簡単でいい。帰りに一二三の好きなパティスリーで秋限定のスイーツを全部買ってくる、などなど。予定していた日帰り温泉旅行は、出来るだけ今年中に行くこと。せっかくだから紅葉の時期に一泊しようと話をつけて、今日の夜には予約を済ませる予定だ。もちろんキャンセル料は独歩持ち。
(たまにはペナルティも欲しいっしょ)
夕飯は簡単でいいと言われたのでちゃんこ鍋にした。といっても、時間があるからと調子に乗って細々としたおかずを作りすぎてしまったが。朝食にする予定だった銀鮭を刻んで鍋にぶち込んだのは嫌がらせのつもりだったが、きっと独歩はうまいと言って食べるのだろう。
「へへ」
思わず笑みが漏れて安堵する。
やっぱり自分は独歩が好きで。
ガチャ
「あ!」
6時のニュースです、というアナウンスが流れるテレビに背を向けて、一二三は玄関へと駆け出す。早く顔が見たい。 約束を反故にしたお詫びに、一二三から提示した条件はひとつ。
「たっ、……ただいま」
必ず独歩から、ただいまを言うこと。
約束は果たされた。多分自分は今きっと、いつもの何倍かの笑みを浮かべているだろう。
その手にはいつもよりひと回り大きなケーキの箱。
きっと楽しい夜になる。
「独歩ちん、おかえり!」
だってこんなにも、嬉しいから。
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