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時間をかけて火を通し、柔らかく仕上げました。

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在る淵のゆりかご(どひふ)
 君のくれる愛情が、あんまり綺麗だから


   在る淵のゆりかご


 すう、と深く息を吸ったとき、自分がため息をつこうとしていることに気がついた。意識をしてしまうともうダメで、うまく吐き出せずにぐっと飲み込んでしまう。
 マンションを照らす朝日が清らかなら清らかなほど、ぐったりとする。
(疲れた、かも)
 2人で暮らす部屋の前に立ったとき、安らぎよりも緊張が先に立つのは良くないサインだ。出来るだけ音が出ないようゆっくりと鍵を開けて、ドアノブを引くと嗅ぎ慣れた生活の匂いがして。
 不思議な安堵に気が抜けるから、その分、疲労の重みが増してしまった。
(寝てる、よね)
 真っ先に同居人の気配を探る。部屋はしんと静まりかえっているから、多分彼はまだ夢の中だ。寂しいような、ホッとするようなぐちゃぐちゃとした気分に胸を圧されながら、ゆっくりと靴を脱ぎ、廊下を進む。
 洗面台で手を洗うと、じわじわと、何か許されていくような気持ちになった。
(今日、休みでよかった)
 ふかふかの白いタオルで手を拭ったら、誘われるように自然にキッチンに立っていた。なぜだろう、体を洗うより、眠るより、まず先にそれがしたかった。
 夜の匂いが染みついたシャツを腕まくりして、白米を洗う。水が濁らなくなるまで研いで、炊飯器にセット。冷蔵庫から食材を取り出して味噌汁の具を煮て火を止めて、小さい方のコンロで卵焼きを作り。
(あと、二十分)
 炊飯の残り時間を確認して、一二三はようやく、浴室に向かった。

(あ…)
 シャワーを浴びて脱衣所に出たとき、聞こえてくる音がある。それは多分テレビから、朝のニュースが流れている音だった。独歩が起きたのだろう。
(う、なんか、出づらい)
 誰よりも会いたいのに、会いたいから、会ったら甘えてしまうから、会いたくない。気持ちはもたもたしているのに、部屋着は一瞬で着られてしまうのはなぜだろう。
 ただでさえ短い廊下はあってないようなもので、ガチャリとリビングの扉を開けると、ソファに座っていた独歩がふっと一二三を仰いだ。
「あ、」
「お、一二三、おかえり」
「……ただいま」
(おはようじゃなくて、おかえり、なのな)
 そんな些細なことがどうしてか嬉しくて、ぽてぽてと目指すソファの隣。ぽすんと座って身を寄せると、寝起きのふわふわとした男の匂いがした。
「一二三?」
「んー」
「何かあったか?」
「んー」
 別に大したことではない。夜の歌舞伎町では毎日のように繰り返されていることだ。それでも一二三は、昨日客に泣かれたのを引きずっている。
「なんでもないよ」
 無理をするなと言い聞かせても、身の丈に合わぬ出費をしてしまう女性はいるし、お店の外での付き合いを求めてくる女性もいる。断って、詰られ怒られするのにはもう慣れたのに、泣かれてしまうと胸が痛んで、消化するのに時間がかかった。
「なんでもない」
 こういうことがあるたび思う、このままでいいのかと。笑顔にしたいと言いながら、同じだけ誰かを傷つけている。
 誰も傷つけないでいたいなんて、願うことすら烏滸がましいと分かっている。自己矛盾も二律背反も見て見ぬ振りをしなければここにはいられない。
 そこまでして、と思うたび、でも、それでも他にないのだということにも気がついてしまう。
 自分には、愛することのできる心しかないから、それで生きていくしかない。
 身を切るように愛で稼いで、時折沈んで戻れなくなりそうになっても。
「なぁ、一二三」
 それでも呼吸が続いているから、ここにいる。
「味噌汁の具なに?」
「大根とおとうふ」
 大事にしてくれる人がいるから。立ち上がる理由が、すぐ隣にあるから。
「なぁに、どぽちん、出汁の匂いで起きたの」
「……そーだよ、悪いか」
「んーん、悪くない」
(きっと独歩がいなくなったら、俺っちすぐにダメんなるね)
「まってて、朝ごはん、準備してくる」


 今日も朝は短くて、独歩は会社に行く時間で。いつものスーツにネクタイ締めて。
 向けられる背中に寂しくなるのなんて、最初だけだと思っていたのに。
「今日何時に出るんだ?」
「休み、うちにいるよ」
「そうか」
 スーツもメイクもない、すっぴんにスウェットの俺っちをじっと見つめて優しく笑う。
「……行ってらっしゃい」
 君のくれる愛情が、あんまり綺麗だから。
「あぁ、行ってきます…あと」
 それを持っている俺が、輝いて見えるんだろう。
「おやすみ、良く寝ろよ」
「……うん」
 パタンと閉じる扉は寂しいけれど痛くはない。だってここには、心には、優しい声が残っているから。
「おやすみ、どぽちん」
 言葉と残り香と、笑顔。シンクには、綺麗に空にされた食器。
「お仕事、頑張って、そんで」
 ここはたくさんの愛情で編まれた、温かなゆりかごだから。
「はやく、帰ってきてね」
 きっと輝ける。次も、その次も。
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