"ヒプその他"カテゴリーの記事一覧
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君のくれる愛情が、あんまり綺麗だから
在る淵のゆりかご
すう、と深く息を吸ったとき、自分がため息をつこうとしていることに気がついた。意識をしてしまうともうダメで、うまく吐き出せずにぐっと飲み込んでしまう。マンションを照らす朝日が清らかなら清らかなほど、ぐったりとする。(疲れた、かも)2人で暮らす部屋の前に立ったとき、安らぎよりも緊張が先に立つのは良くないサインだ。出来るだけ音が出ないようゆっくりと鍵を開けて、ドアノブを引くと嗅ぎ慣れた生活の匂いがして。不思議な安堵に気が抜けるから、その分、疲労の重みが増してしまった。(寝てる、よね)真っ先に同居人の気配を探る。部屋はしんと静まりかえっているから、多分彼はまだ夢の中だ。寂しいような、ホッとするようなぐちゃぐちゃとした気分に胸を圧されながら、ゆっくりと靴を脱ぎ、廊下を進む。洗面台で手を洗うと、じわじわと、何か許されていくような気持ちになった。(今日、休みでよかった)ふかふかの白いタオルで手を拭ったら、誘われるように自然にキッチンに立っていた。なぜだろう、体を洗うより、眠るより、まず先にそれがしたかった。夜の匂いが染みついたシャツを腕まくりして、白米を洗う。水が濁らなくなるまで研いで、炊飯器にセット。冷蔵庫から食材を取り出して味噌汁の具を煮て火を止めて、小さい方のコンロで卵焼きを作り。(あと、二十分)炊飯の残り時間を確認して、一二三はようやく、浴室に向かった。
(あ…)シャワーを浴びて脱衣所に出たとき、聞こえてくる音がある。それは多分テレビから、朝のニュースが流れている音だった。独歩が起きたのだろう。(う、なんか、出づらい)誰よりも会いたいのに、会いたいから、会ったら甘えてしまうから、会いたくない。気持ちはもたもたしているのに、部屋着は一瞬で着られてしまうのはなぜだろう。ただでさえ短い廊下はあってないようなもので、ガチャリとリビングの扉を開けると、ソファに座っていた独歩がふっと一二三を仰いだ。「あ、」「お、一二三、おかえり」「……ただいま」(おはようじゃなくて、おかえり、なのな)そんな些細なことがどうしてか嬉しくて、ぽてぽてと目指すソファの隣。ぽすんと座って身を寄せると、寝起きのふわふわとした男の匂いがした。「一二三?」「んー」「何かあったか?」「んー」別に大したことではない。夜の歌舞伎町では毎日のように繰り返されていることだ。それでも一二三は、昨日客に泣かれたのを引きずっている。「なんでもないよ」無理をするなと言い聞かせても、身の丈に合わぬ出費をしてしまう女性はいるし、お店の外での付き合いを求めてくる女性もいる。断って、詰られ怒られするのにはもう慣れたのに、泣かれてしまうと胸が痛んで、消化するのに時間がかかった。「なんでもない」こういうことがあるたび思う、このままでいいのかと。笑顔にしたいと言いながら、同じだけ誰かを傷つけている。誰も傷つけないでいたいなんて、願うことすら烏滸がましいと分かっている。自己矛盾も二律背反も見て見ぬ振りをしなければここにはいられない。そこまでして、と思うたび、でも、それでも他にないのだということにも気がついてしまう。自分には、愛することのできる心しかないから、それで生きていくしかない。身を切るように愛で稼いで、時折沈んで戻れなくなりそうになっても。「なぁ、一二三」それでも呼吸が続いているから、ここにいる。「味噌汁の具なに?」「大根とおとうふ」大事にしてくれる人がいるから。立ち上がる理由が、すぐ隣にあるから。「なぁに、どぽちん、出汁の匂いで起きたの」「……そーだよ、悪いか」「んーん、悪くない」(きっと独歩がいなくなったら、俺っちすぐにダメんなるね)「まってて、朝ごはん、準備してくる」
今日も朝は短くて、独歩は会社に行く時間で。いつものスーツにネクタイ締めて。向けられる背中に寂しくなるのなんて、最初だけだと思っていたのに。「今日何時に出るんだ?」「休み、うちにいるよ」「そうか」スーツもメイクもない、すっぴんにスウェットの俺っちをじっと見つめて優しく笑う。「……行ってらっしゃい」君のくれる愛情が、あんまり綺麗だから。「あぁ、行ってきます…あと」それを持っている俺が、輝いて見えるんだろう。「おやすみ、良く寝ろよ」「……うん」パタンと閉じる扉は寂しいけれど痛くはない。だってここには、心には、優しい声が残っているから。「おやすみ、どぽちん」言葉と残り香と、笑顔。シンクには、綺麗に空にされた食器。「お仕事、頑張って、そんで」ここはたくさんの愛情で編まれた、温かなゆりかごだから。「はやく、帰ってきてね」きっと輝ける。次も、その次も。PR -
肚の底、同じ獣を飼つてゐて。
心中未遂(ままごと)あそび
「金貸してくれっ!」
性懲りも無く頭を下げにきた男を、夢野はわざとらしく忌々しげな顔で見下ろした。不純なやり取りも、慣れてしまえば何の不快感もないのがいっそ可笑しい。
「ぜってー返すから!」
夢野が渋るのは別に、金を貸すのが嫌だからではない。ただ単純に金を貸すのがそろそろ、つまらなくなってきたのだ。戻ってくるかわからない金にヤキモキするくらいならさっさと縁を切るだけだが、妙な縁で結びついてしまったせいで、そういうわけにもいかない。
「じゃあ帝統」
まぁ、ちょうど新しいネタが欲しくなっていたところだ。
「小生と賭けをしましょうか」
帝統はんが勝ったら無利子で金貸しして差し上げましょ、高い声で揶揄うように告げると、有栖川は子供のような無邪気な顔をした。
よってふたり、夢野の馴染み、のどかな喫茶店の窓際に、むかいあって座っている。遠慮のない有栖川は、1番高価なハヤシライスを注文してがっついていた。
「ときに帝統」
賭けはもう始まっている。ふと顔を上げる有栖川の口周りは、やはり子供のようだ。口の端が豪快に汚れている。
「あなたはスリルだの何だのと言って小生に金の無心をしますがね」
夢野の提案はこうだ。有栖川のすることは、問いに答えること。その答えが夢野を楽しませたら有栖川の勝ち。退屈させたら負け。何だよそれ、と顔を顰める有栖川に、相手の手札を探るのもギャンブラーの腕でしょうと挑発すると、よく考えもせずまんまと乗ってきた。
「なぜギャンブルなんです?」
一般的な感覚なら、問い詰めるようにも聞こえるその問い。もちろん、責めるつもりは毛頭ない。そのこだわりに触れたいという一心だ。夢野のもつ、人並みならぬ好奇心を正しく受け止められるか、それこそがこの賭けの醍醐味とでも言おうか。有栖川の答えがこの身を喜ばせるか、それとも裏切られるか。
待つ時間のスリルは確かに、悪くない。
「逆に聞くけどよぉ」
ガツガツと食事をするくせ、スプーンの持ち方が美しいのは、彼が隠したがるその出自ゆえか。
「他に何があんだよ?」
その返事が戦略なのか、それともただの捨て身なのか。他人というのはわからない。わからないから面白い。
「他にもあるでしょう?例えば」
疑心暗鬼のないやりとりは楽しい。
「物語を書く、とか」
夢野が当然のように言うと、有栖川はキョトンとしてみせた。よもや演技とは思えぬ、やはり幼気な無垢さを持って。
全く意味がわからない、とでも言いたげな有栖川の向かいで、夢野は懐から小さなメモを取り出した。ペラペラといくつか頁をめくると、ふ、と手を止め、目を伏せて。
すうっと息を吸う音が、静かな喫茶店に緊張感を産んだ。
「“おやめになつて”」
得意の声色で夢野は、メモに書きつけた文章を読み始めた。有栖川はスプーンの動きを止め、その口元をじっと見つめた。
「“女の喚くのを、男は聞かなかった。男の右腕が振りかざしたビンは割れていて、鋭い切先にはアルコールがしたたっている”」
声色自体は落ち着いているのに、抑揚とスピードの付け方が不穏な雰囲気を醸し出す。
「“後生ですから、おやめになって、おやめになつて……繰り返し泣き叫ぶ女の声が、しかしあるときはたと止んだ。……静寂の中で、瓶の先にまた何か液体が滴る”」
有栖川は、じっと耳を澄ましている。与えられるのは、声であり、言葉であり、そして光景だ。
「“焼酎が入っていたはずの瓶から滴るのは、葡萄酒のように赤黒い雫だ。日に焼けてささくれた畳にぱたりと一滴落ちると、揮発するアルコールの匂いではなく、生臭い鉄の匂いが汚い部屋に満ちた…”」
ごくり、と有栖川の喉が鳴った。数秒の余韻のあと、夢野はぱたんとメモを閉じ、伏せていた瞼を上げてにこりと微笑んだ。
「どうです、ゾッとはしませんか?」
有栖川は、すぐには返事をしなかった。返事よりも先に、スプーンでカタ、と皿を鳴らした。
「こえーよいきなり」
一言そう呟くと、目を逸らしてまたもく、もく、とハヤシライスを咀嚼し始める。
「スリルを味わいたいというのは、よくわかります」
その光景を、動物の餌やりでも眺めるような心地で見つめながら、夢野は続ける。
「日常は退屈です。だから小生は小説を書く。スリルもリアルもこの頭の中にある」
穏やかな日差しに、ゆったりとした音楽。のどかにしか見えない景色のうち、自分の内側には不穏が渦巻いている。それだけでこんなにゾクゾクするのに。
「それを出力するだけで小金がかせげるのに、あなたは金を使うだけ使って、なんなら他人の稼ぎをあてにしてのらりくらりと生きている」
風情も品もないのは譲って、でも、効率が悪過ぎることについてはどう思っているのか。そんな風に思いながら紅茶に口をつけるとき、夢野は俯いたから、一際歪んだ有栖川の顔を認めることはなかった。
「んなこと言ってもよ」
投げやりな風に言う声に夢野が顔をあげた先で、有栖川は行儀悪くスプーンを舐めると、眉間に皺を寄せたまま、その銀色の先端をビッと夢野に向けた。
「できないもんはできねぇよ」
お前のそれは才能なんだぜ、みんなにできるわけじゃねぇんだ。褒め言葉と思うにはあからさま過ぎる有栖川の呟きに、欲が出る。
「じゃあですよ、じゃあ」
ギャンブルをやめさせたいだなんて、微塵も思ってはいない。ただ、その非合理に身を置くことに、何か価値があるとするなら、その魅力を知りたいだけだ。明け透けに言えば、この男の経験を自分のものにしたいのだ。
刺激が欲しいと“思わされて”いるならもう負けているのかもしれないが、そんなことは最初から、どうでも良かった。
「例えば小生が帝統に金を貸しすぎて露頭に迷ったとしますよ」
「お前はそんなヘマしねーだろ」
「話を聞いてください、例え話です。」
自分を俯瞰で眺める自分が、楽しそうですねと笑っている気がする。顧みたらきっと恥ずかしくなるほど、自分がはしゃいでいるのがわかる。
「そうしたら、帝統、あなたどうしますか?」
夢野の問いに、有栖川は腕を組んでわざとらしくうーんと唸って見せた。
いつの間に、皿は綺麗に片付いていた。
「俺のせいだっていうんなら、面倒くらいは見てやるよ」
「どうやって」
「タダで食えるもん教えてやる」
そんなんだからモテないんだよ!といつも乱数が言っているのを、何故だかはっきりと思いだした。
「寝心地の良い公園はどうだ?」
すごいだろ?とでも言いたげな様子は、猫が蝉を捕まえて胸を張るのに似ていて。
「小銭拾ったら半分やるし」
本当にしょうもない提案を、名案のような顔で話して。ついにひらめいた!という表情を見せたかと思いきや。
「勝ったらゼータクさせてやるぜ!」
これが正解だろう、と目をキラキラさせて満面の笑みをたたえてみせる。彼にとって、ギャンブルで勝つと言うことの喜びの大きさ、負けてもどうにかなるという底無しの楽観はたしかに、その魂をジェットコースターのように走らせる強い刺激なのかもしれない。
「でも帝統、こうは思いませんか?」
しかし、まだだ。まだ足りない。沸き立ちそうな興奮を隠しながら、訝る“フリ”で思案する表情を作り、尚も夢野は有栖川を試す。
「刺激のないかわり、安定した衣食住をもち、ただ毎日を温かく爽やかに過ごしたいとは?」
それはごく一般的でありふれた、万人受けする幸せの形だ。さてどう来る?と答えを待つ夢野は。
(おや)
有栖川のその目の奥に、吸い込むような暗がりを見た。
「そんなの生きてるって言えねぇよ」
言う声は低く、じとりと落ち着いている。馬鹿げた宿無し生活を楽しげに聞かせた先程とは、違う人間のようだった。
「死んでねぇだけだ」
その答えが嘘ではないと理解るのは、嘘つきは他人の嘘にも敏感だから。心の底から沸き立つのは、紛れもなく。
「ふふっ」
喜びだ。
きっとふたり、肚の底に、同じ獣を飼っている。退屈は敵で、刺激がなければ死んでしまう。それが真実かどうかなんて本当にどうでもよくて、心が踊ればそれが本物だ。
夢野は夢想した。安定を捨てた2人で、この命の尽き果てるまで、その日暮らしの宿無し生活。捨てるよりも酷い金の使い方をして、ときに命までも追われながら、もしかして明日死ぬかもしれない、そんな、心中未遂にも似たままごと遊びを繰り返して笑う。何を失ったとて、ひとつ運命の輪の上のできごととして、笑いながら生きていく。
それはとても魅力的な毎日に思えた。
「負けました、貸しましょう」
脳裏に閃く愉快な想像が夢野の生命線ならば、その刺激をくれる有栖川の存在はいつか、命綱にさえなるかもしれない。
「本当か」
「ええ、でもその代わり」
夢野はそっと身を乗り出し、椅子から腰を浮かせて、薄く形の良い唇を、有栖川の耳元に寄せると。
「妾が堕ちたら責任とってくださいね」
まるで誘惑する淑女のような声と言葉を、その耳に流し込んだ。
目を見張る有栖川の表情に満足した夢野は、すっと身を離してまた、椅子に腰を落ち着ける。ティーカップの紅茶は、すっかり冷めていた。
「つか、今の話ネタにすんならその分寄越せよ」
馬鹿なくせに賢いのは獣のような生活をしているからだろうか。
「ま!妾からいくらせしめればご満足?」
カップをソーサーに置き、袖で目元を覆い、およよ、とわざとらしい嘘泣きをしたとき、まさかその冗談に、有栖川が乗ってくるとは思っていなかった。
だから、知らぬうちに伸びてきた有栖川の親指が、涙を拭うふりをして。
「お前が泣くようなことはことはしねぇよ」
変に優しく、微笑むものだから。
(危ない)
まるで足元がぐらつくような錯覚。もし、もしこの身が堕ちたとき、本当にどこまでも、ついていってしまうのではないか、などと。
(まさか、ねぇ)
かすかに獣くささの残る、煮込み料理の匂いをさせた指先が、離れていくのがひどく惜しいのが、不思議だった。 -
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エアルビ境界線(ボーダーライン)がわからない
ロクロシショと見習いクンの微妙な関係推せる
溶けてひとつになってもいい
ライブハウスがなんでハコと呼ばれるのか、足を踏み入れるたびに理解する。振動を逃さないために、世界をくりぬいたような四角い容れ物には出口も逃げ道もなくて、閉まった扉はもう一度開くまでその存在を消してしまう。控室で着替えてきたのに、人熱で半袖のシャツの下が汗ばんだ。(狭いな)ふ、と湧き出た感想は不満ではなく高揚だ。基本、呂駒呂はキャパシティや報酬で仕事を選別しないが、それでもここのところ、アリーナや屋外での仕事が多かった。500人で満員になるようなライブハウスはかなり久しぶりで、まだ見習いを名乗る前にあった、ただそこに居るだけで血が湧くような感覚を思い出す。(まだ、かな)控室を出てきたとき、もうすでに開始時刻は目前だった。この、理不尽に待たされる時間も醍醐味の一つだ。前列で今か今かとパフォーマーを待つ熱狂的なファンのソワソワとした空気、後列からじっとステージを見つめる観客の期待の眼差し。ステージからはチューニングの音が聞こえて、消えて。あ、と何かに気がついたような誰かの声が響いた後、パッとステージに照明が灯る。ワァァァァァ観客たちが思い思いの感性を上げると、それは海鳴りのように響く。ステージに上がるメンバーの最後尾に我が師匠を見つけてしまったら、そこに釘付けになってしまうのはもうずっと前から。それぞれが位置について、目配せで始まるパフォーマンス。始まりの静けさは恐ろしいほどで、何かのゲージが溜まっていくような錯覚がある。ステージの上で影が揺れる。パリパリとした、レコードを削るような音さえ聴こえるのは、観客が期待に身を潜めるから。続いてじわりと音量を上げながら鳴る、テクノとピアノの混じったようなメロディアスなメロディ。だからその後にドンと響く低音が喉奥から鳩尾に痛いほど響いて。(わ、あ)それを合図に湧き立つ会場、一人なら小さな揺れも、それが重なって伝播したら波のように見えて、まるで溺れているみたいだ、というも思う。だから、そんな波立つ会場のなかにあって、ただただ立ち尽くす自分はきっと、沈んでいるのだと思う。あの人の指先が組み立てて、深くなっていく音とビートの海の、底に向かって沈んでいくのだ。指先から毛先まで全身がビリビリ痺れて、息が苦しくなる。周囲で振り上げられる拳を真似して手を伸ばしたっていいはずなのに、届かないのが怖いから出来ない。激しいのも、優しいのも、切ないのも自由自在に、まるで弄ぶように、それでいて包み込むように。(あ、)キャパシティが狭いと、ステージとの距離が近い。最近はもっぱら舞台袖にいてちょっとした手伝いなんかをしていたから、こんなふうに、肉眼で表情が見える距離でプレイを観るのは久しぶりだった。(笑ってる)いつだって誰よりも楽しそうに見える。ときに土台、ときにペースメーカー、ときにスパイス。まるで天候を操るようにその場の空気を掌握して。あんな風になれるとは思えないくらい遠くて、でも絶対に届きたい。近くにいすぎて忘れかけていた本当の距離を思い出して、切なさに目を細めたとき。(え、)血と涙の色をした瞳は確かに、こちらをしっかりと見つめていた、気がした。
「本当に勉強するつもりなら」3時間ほどあったはずのステージは一瞬だった。ライブハウスは出口が狭いから控室まで戻るのにひどく時間がかかってしまった。着替えを終えた呂駒呂はミネラルウォーターのペットボトルを空にして潰すと、やれやれといった顔をした。「俺ばっか見てんじゃねぇぞ」「……」そんなことはない、という否定は出来なかった。だって、ステージの上のこの人から目をそらすことなんてできるはずがなかった。いつだってそうだ。一つでも何か学ぼうと意気込んでいるのなんて始まる直前までで、いざスクラッチが始まればもうあとは飲み込まれてしまう。「あとなぁ、お前」呼ばれて顔を上げると、正面には胸板が見える。背の高い呂駒呂が近くに立つと、目を合わせるために顔を思い切り上げねばならない。「……それだよ、それ」それとはどれのことだろう?首を傾げようとして、それが出来なかったのは。「その目だ」まだ成長しきらない、喉仏も目立たない首の後ろ側を、呂駒呂の大きな手が緩く掴んでいるからだ。「その目で男を見るんじゃねぇ」指先に力がこもって、耳の付け根のあたりに短い詰めが少し食い込む。パフォーマンスの直後だからだろうか、呂駒呂の掌はすこししっとりとして、かいた汗を拭き損ねたうなじにぺたりと張り付いた。(……え)そのまま引き寄せられて、足が一歩前に出る。鼻先に、屈んだ呂駒呂の顔がある。瞳の中の血色と涙色の境目が、疲労に潤んで滲んでいる。吐息がぶつかった、とおもった。そのまま唇の輪郭が重なるのではないか、とおもった。しかしそうはならなかった。ただ、まだ更々とした頬に、すこし伸びた髭がざり、と擦れて。「何されるか、わかんねぇぞ」鼓膜に息を吹きかけるような距離と仕草で、いつもよりも疲れてかすれた低い声が、囁くのを聞いた。首の後ろ、頸椎の上の皮をゴツゴツとした指先に撫でられると、背筋をつたわって尾てい骨のあたりがじいんとする。もしもしっぽがあったなら、大きく膨らんでいたに違いない。「……何って?」振り絞った返事に聞こえたのは、呆れたようなため息。ちったぁ嫌がれよな、という呟きを、聞き逃してなんてあげない。「なんでですか?」だって、触れていた温度が離れていけば寂しいから。首の後ろからその掌が離れていくとき、絆創膏を剥がすときみたいに皮膚が引っ張られるような気がするから。「何、しようとしたんですか」嫌がるなんて選択肢は最初からないんだって、それをわかって欲しくて、すがるように、頬の辺りで引きとめた手に。「っいだ!」ぎゅうっと耳を引っ張られて、思わず身を竦めた。「調子乗んなよ、クソガキ」意地悪するくせに、怖い顔するくせに、ひどいこと言うくせに。「もっと自分を大事にしろっつってんだよ」手を離す前につねった耳たぶを、優しくすぐるように撫でてくれるのはちょっと、いや、すごくずるい。「……」「おら、帰るぞ」今日もその背中はひどく広くて大きい。しがみつきたいのをどうにか堪えるために、荷物の紐をギュッと握った。 -
「行ってきまぁ〜す!」
家のドアを勢いよく開けて駅に向かって駆け出すとき、改札までがひどく遠く感じるようになったのは、きっとあの人に出会ってから。
片道40分
イケブクロ・ディビジョンからヨコハマ・ディビジョンまでは、一本で乗り換えなし。ヨコハマへのお使いを何度も買って出ていたら、急行の時刻を覚えてしまった。二郎は迷路のような駅を迷いなく早足で進み、ICカードでピッと改札を鳴らした。羽の生えたような身軽さで階段を下り切るとき、ちょうど減速でホームにやってくる電車の正面と目が合った。
(やった!ジャスト!)
微妙な時間の乗車率は、座席が埋まるか埋まらないか、というところ。誰かと誰かの隙間に身をねじ込むよりも、人のいない扉の脇に場所を取るほうが気が楽だ。
聴き慣れた電子音、閉まる扉、走り出す電車の中で、二郎はいつも、スマホとにらめっこをする。
(どーしよ)
こんな日はいつもこうだ。メッセージアプリを立ち上げて、同じヒトのトークルームを眺める。“入間さん”のアイコンには赤い目のウサギがいて、いつだって二郎をじっと見つめる。
今日のお使いは、モトマチまでの届け物だ。宅配便では間に合わないとか、頼みづらいものとか、比較的よくある依頼である。もちろん中身が違法でないか、兄の確認済みである。
(忙しーかな)
いくつも駅を飛ばす急行だから、一度の停車で人の出入りは多い。けれど開かない方のドアに身を寄せていれば、難なくやり過ごすことができた。
(どーしよーかな)
いつもこうだ。ヘッドホンから1番最近作ったプレイリストを流しながら、ずっとトークルームを眺めている。前回の短いやりとりを眺めるだけでニヤニヤしてしまう。二郎が教えた無料スタンプの使い方がちょっとズレているのがなんだか可愛い。
そんなことを考えているうちに、多摩川を越える。幅広の河川はだいたい穏やかに流れて、所々河川敷で子供が遊んでいるのを見るのは好きだった。
(……サッカーやってる)
連絡する用事が全くないわけではない。以前に借りたCDをボディバックに忍ばせている。だから”今日そっちに用があるんだけど、借りてたCD返せますか?”とだけ送るのは、何もおかしいことはないのだ。
おかしいのは自分の心だ。会いたいのに、会いたいと伝えることができない。キーボードに手を置くと、心臓がうるさくなる。
(あ、)
ちょうどいいのか、悪いのか、ランダム再生にしていたプレイリストが、銃兎から借りたCDに収録されていた曲を流し始めた。二郎だったらきっと聞かない、少ししっとりとした洋楽。
(やば)
聴きながら、なんか声が似てるな、なんて思ったことを思い出して、耳の先が熱くなった気がする。
他のディビジョンの、しかも敵対している相手に対して、こんな気持ちになるのはおかしい。そんなこと、自分が一番よくわかっている。でも、ずるいのだ。
バトル中は闘争心剥き出しで、手加減なんて知りませんって顔。鋭いライムで高ダメージのリリック、独特のフロウは本当、パトカーのサイレンみたいに響く。
なのに一度ステージを降りたら、涼しい顔で「まだ若いんですから、無茶はしないほうがいいんじゃないですか?」なんて。嫌味のつもりだったかもしれないけど、二郎はその瞳の奥に、少し申し訳なさそうな、切ない揺らぎを見たのだ。
兄は左馬刻を嫌がるし、三郎は警戒心が強い。となると必定、こちらからは二郎が出ることになり、向こうからは銃兎が出てくる。一対一のやりとりをすると思う。多分この人、優しい人だ、と。
会いたいと思う。顔が見たいとか。タバコは得意じゃないけどあの人のそれは嫌いになれなくて、眼鏡の奥の瞳が、優しいお兄さんになる一瞬がほしい。
(よし!)
返事がなくても、断られてもヘコまない!そんな小さな決意を胸に、二郎がキーボードに指を乗せた、そのときだった。
「…ウソ」
思わず口から漏れた声は、駅名をコールする車内放送と重なったから、誰の耳にも届きはしなかった。
ポン、とあまり可愛くないスタンプのあと、“近く、こちらに来る予定はありますか?”というメッセージ。今まさに、と即答で返事をしたいのに、驚きで指にそれが伝わらない。既読をつけてしまっているから、早く返したいのに。
(っ!)
落ち着きのない指先は、スタンプもうまく探せない。急いだせいで”いまからいく!”と全部ひらがなの、勘違いされそうな返事をそのまま送ってしまう。
(あ〜!ちがくて!どーしよ!)
既読がすぐについてしまうからさらに慌ててしまい、上手い説明が思いつかない。
(え〜っと、今日はおつかいで、もともとそっちにいく予定があって、)
どうしたらちゃんと伝わるのかなんて、考えれば考えるほどわからない。うろたえる二郎のスマホに、またぽこんと新しいメッセージ。
“もしかして、萬屋のお仕事ですか”
なんて察しがいいんだろう!半ば感動しながら丸の形をしたスタンプを送ると。
“それでは、用事が済んだら連絡ください”
(やった!)
軽くガッツポーズをしながら、今度はOK!と書かれたスタンプを送ると、“お仕事頑張って“と一言。感謝の意を伝えるスタンプを返すと、既読がついてやり取りは終わった。
「……はぁ」
急展開に、思わずため息をつく。路線案内をするモニターを見上げると、もう下車駅は近い。
よく考えたら会う約束はしていない。でも期待はできる。してしまう。すると、なんだか急に、荷物が軽い。
「へへ」
誰にもバレないように小さく笑いながら、二郎は銃兎からのメッセージの最後を、するりと優しく撫でた。