"ヒプその他"カテゴリーの記事一覧
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「ま、じか」自室のベッドに腰掛けたまま、一二三は思わず呟いた。誰もいない部屋だ。誰が聞くこともないその声が向けられたのは、スマホに表示されたメッセージアプリの画面である。“ごめん、明日無理になった”砕いて尖った氷を呑み込んでしまったみたいに、一瞬で心がひゅんと冷えるて、痛い。「まじか〜!」明日のためにがんばった。明日のためだけに今日明日明後日の三連休にしていた。そのための連勤もした。お気に入りの服にアイロンもかけた。朝食だってこれから、いつもよりちょっと豪勢にできるよう準備もするつもりだった。ぱたん、と背中をベッドに預けて、じっと眺める天井は、今にも涙で滲みそうである。本当、便利な世の中になったものだ。こんなメッセージアプリで、顔も見せずに謝罪なんて。ちょうど一二三がスマホをいじっていそうな時間に連絡をよこすのだってずるい。家事や掃除で忙しくしている時間に連絡をくれれば、速攻で既読をつけてしまうこともなかったのに。まるでご機嫌を伺うかのように、つい先日一二三の教えた無料スタンプのがポン、と送られてくる。情けない顔のクマがシュンとした顔でごめんね、と謝っているけど、じゃあ許してやろうという気分にはなかなかならない。「え〜、どうすっかなぁ」ごろん、と寝返りを打ちながら、キーボードをタップする。”マジか〜!でも仕事なら”まで打っては消して、”ひでぇ!俺っちめちゃ楽しみに”まで打ってはまた、消して。自分の気持ちを正しく伝える言葉が思いつかない。本当は、今すぐ電話して、できない約束なんかするなって、文字ではなく声で怒りたい。それで、そのままスマホの電源を消してしまいたい。なんだか自分ばっかり楽しみにしていたみたいで、アホらしくて、バカみたいで。(仕事と俺っち、どっちが大事なの?なんてね)でも、できない。したらきっと後悔する。(仕事頑張ってるどぽちんにひどいこと言っちゃった)なんて悩んで、スマホの電源はすぐに入れてしまうだろうし、連絡と帰宅を待って眠れなくなるのもわかっている。どうしてだろう、どうしていつもこうなるんだろう。もう期待はしないといくら言い聞かせていても、一緒にいられる時間が何時もより長いのだけで少し、浮かれてしまうのをやめられないままだ。何年経っても。「しょうが、ないなぁ」自分を慰めるように、出した声は思っていたより震えた。意地悪なのは独歩じゃなくて神様なんだって、そう思うしか、この夜を超えてはいけない。こんなとき素直に泣けたらいいのに。店に通う女の子たちみたいに自分の感情に素直に、自分のことだけみていて、なんて。「ま、いつものことだしね」泣き叫んですがりついて、でも、その後どうなるんだろう。困らせて、疲れさせて、鬱陶しい、面倒だって思われるくらいなら、自分がちょっと我慢すれば、明日も一緒にいられるし。結局一二三が選んだのは、独歩が送ってきたのと同じシリーズの、おつかれのスタンプと、りょ!の一言。多分これでいい。これなら独歩は変に気を使わずに、自己嫌悪もせずに済む。スマホの電源は消せないけれど、暗転させて、少し遠く、ローテーブルに置く。ベッドサイドに置いておくと、返信に気がついてしまうから。多分大丈夫、傷ついてない。傷ついてなんか。「っふ、」泣きながら眠るとまぶたが腫れて顔がダメになるけど、明日休みだから別にいい。早めに風呂を済ませておいて良かった、なんて無理やりなポジティブ。おかえり、も、いってらっしゃい、も、きっと笑顔では言えないなら、疲れたふりして眠ってしまおう。きっと明日の夕方ごろにはいつもみたいに笑えるから。「ばか、どっぽ、きらい」だからどうか、今だけは、嫌いでいさせて欲しかった。「……み、ひふみ」呼ぶ声が聞こえて、意識が持ち上がる。もう朝?と思いながら浮上する意識と一緒に上げようとした目蓋が重だるいので、昨夜のことをばんやりと思い出してしまった。うんざりした気分でスマホを手探りするといつもあるはずの場所にはなくて、そういやテーブルに置いたんだっけ、と思い出してまた凹んで。「おい、起きたのか?ひふみ、」寝返りを打って、うっすらと開けた目。瞳に映る人は本物だろうか?それとも幻?「……目、真っ赤じゃないか」「ど、っぽ?」一二三が独歩を叩き起こすことはあっても、その逆はなかなか珍しい。ベッドサイドに腰掛ける独歩のその首元には緩んだネクタイがぶら下がっていて、肩でジャケットの襟がよれている。「え、いま、なんじ?」「……1時」てっきり昼の、かと思ったひふみは、そんなに寝たのに疲れが取れていないのかとがっくりしてしまった。だってまだ、独歩に笑顔のおかえりは言えない。「おれっち、おきたほうが、いいの?」寝起きの掠れた声は低くて、自分でも聞き取りにくい。不機嫌な顔を見せたくなくてもそもそと布団に潜るのに、独歩にそれを邪魔されるから、布団で腕で覆って、顔を隠す。「いいじゃん、おれっちは、やすみだし」このままだと、きっとたくさん嫌なことを言ってしまう。その前に、ここからいなくなってほしい。「どっぽはおしごとあるでしょ」ちゃんとおかえりを言う支度くらい、ゆっくりさせてほしいのに。「すまんひふみ、今は深夜の1時だ」「はぁ?」うっかり大きめの声が出た。深夜一時になぜ起こすのだ。それも、人の部屋に勝手に入ってきて。些か腹が立って独歩を睨みつけるとき、ようやくそこで目があって、やっぱり少し悲しくなった。「……」無言で寝返りを打とうとしたのに、胸元に額を預けられて身動きが取れなくなった。「おまえが変に聞き分けいいときって」独歩の使うプチプラの整髪剤の香りはあまり好きではないのに、独歩の匂いと混ざると嗅ぎ慣れて嫌と思えないのが嫌だ。「無理してるだろ」でもまさか泣くとは思ってなかったよ。ため息と一緒にそんなことを言われると、浮腫んで乾いたまぶたの奥からまたこみ上げる熱がある。「なぁ一二三、俺だって、楽しみにしてたし」ジャケット着たままベッドに来るなと何度言ったらわかるのだろう。甘えるように抱きしめられるとき、独歩の疲れた匂いがした。「埋め合わせは、したい、と、思ってる」信じたらまたきっと傷つく。わかっているのに心は言うことを聞かずに期待して喜ぶ。すまない、と言いながら一二三の首元に鼻を寄せて息をする。匂いを嗅がれている気がして身を捩ると、抱きしめる腕の力が強くなった。「ね、どっぽ」まだ笑えない。目の腫れはそう簡単には引かない。「あと30分、待っててやっから」明日はきっととても寂しい。でも。「お風呂入ってきな、一緒に寝よ」もう、嫌いでは、いられなくなってしまった。(も、やだなぁ)独歩はむくと起き上がって部屋から出ていった。きっと髪もろくに乾かさず、15分程度で戻るだろうという一二三の予想は当たるけれど。この後、独歩が目蓋を冷やすための濡れタオルを持ってくることまでは思いつかないまま。(すき、だなぁ、)一二三はもういちど、静かに少しだけ、泣いた。
「ふぅ、」
一通り揃ったとりどりのおかずをダイニングテーブルに並べ終えて息をつくと、はかったように炊飯器が鳴る。
時計を見ると、もうすぐ18時。
(がんばれ独歩ちん)
会社の都合とはいえ、前々からの約束を反故にしたことは、独歩なりに反省しているようで、昨晩は一二三の髪をいじいじといじりながら色々なご機嫌とりを提示してきた。できるだけ早く帰る。夕飯は簡単でいい。帰りに一二三の好きなパティスリーで秋限定のスイーツを全部買ってくる、などなど。予定していた日帰り温泉旅行は、出来るだけ今年中に行くこと。せっかくだから紅葉の時期に一泊しようと話をつけて、今日の夜には予約を済ませる予定だ。もちろんキャンセル料は独歩持ち。
(たまにはペナルティも欲しいっしょ)
夕飯は簡単でいいと言われたのでちゃんこ鍋にした。といっても、時間があるからと調子に乗って細々としたおかずを作りすぎてしまったが。朝食にする予定だった銀鮭を刻んで鍋にぶち込んだのは嫌がらせのつもりだったが、きっと独歩はうまいと言って食べるのだろう。
「へへ」
思わず笑みが漏れて安堵する。
やっぱり自分は独歩が好きで。ガチャ
「あ!」
6時のニュースです、というアナウンスが流れるテレビに背を向けて、一二三は玄関へと駆け出す。早く顔が見たい。 約束を反故にしたお詫びに、一二三から提示した条件はひとつ。
「たっ、……ただいま」
必ず独歩から、ただいまを言うこと。
約束は果たされた。多分自分は今きっと、いつもの何倍かの笑みを浮かべているだろう。
その手にはいつもよりひと回り大きなケーキの箱。
きっと楽しい夜になる。
「独歩ちん、おかえり!」
だってこんなにも、嬉しいから。
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ぐちゃぐちゃになりたい夜は、何も持たずにアトリエを出る。適当に汚れたオーバーサイズのパーカーはフードまでかぶって、金目のものは持たず、誰とも目わせず、大袈裟に人を避けながら早足で歩けば、わざと治安の悪い道を選んだって怖いことなんてない。それでも声をかけてくるのなんて汚くて臆病な酔っ払いのおっさんくらいだから、沢山ある交番の場所さえ把握しておけば犯罪抑止のボランティアまでできてしまうのだ。
「ボクってエラ〜い!」
ぐちゃぐちゃになりたい夜は、シブヤからシンジュクまで歩く。
決してこの身を許さない男の匂いを探す。
リーサルドーズオブヘイト
「ふぅ、」
(シンジュクってどっからどこまで?)
しばらく歩いて見上げるビル群にはまさしく、摩天楼という言葉がよく似合う。夜の照明は煌びやかに、神をも恐れぬ風情で堂々と立ち並ぶ。忌々しいという感情しか湧かない、でもそれでいい。これが欲しかったのだから。
人の減った夜の交差点に浮き上がる、横断歩道の白い部分だけ踏んで歩いてみる。けれど、同じように遊んだいつかの夜のワクワクした気分は、もう戻ってはこなかった。悲しい夜を重ねたつま先は重く、白線からはみ出しただけで泣き出しそうだった。
楽しかったこと、嬉しかったこと全部を、綺麗な色の嘘にする憎悪の眼差し。あれを知ってから、楽しいはずの気分が褪せていく速度が速い。
(寂雷はきっとボクのこと、壊れないおもちゃだと思ってたよね)
ビルの航空障害灯は赤く明滅して乱数を威嚇する。
(でもさぁ、強い力で手首を握られても、腰を掴まれても、泣かなかったのは、別に)
二人で幸せになる方法だけは、最後までわからなかった。
(平気だったから、ってわけじゃ、無いんだけど)
だからせめて、せめて不幸にならないように、孤独を奪い合うみたいにぶつけた肌の熱さを。
(ボクが泣いたらお前はきっと、触ってくれなかったし?)
失ってからこっち、ずっとなんだか、背中が寒い。
思いやりなんてどこにもなくて、ぶつかるみたいにふれあった。痛みしかない夜は空に投げても星にはなってくれず、重力に従って墜落するせいで心はボコボコだ。
(どうせ酷くするならいっそ、壊してくれたらよかったのにさぁ)
月の裏側みたいに。
(ボクはコワレモノなんだって、知らしめてやればよかったなぁ)
シンジュクの街は警告する。番犬のように牙をむく。これ以上足を踏み入れるなと。
「でもそうすると、アイツの後悔したカオ見れないねぇ」
飴は舐めるものだと何度言っても聞かなかった男は、今夜もこの街のどこかで優しい顔をしているに違いない。そう思うと、腹の底がうずく。
心も体も作り物なら、こんな気持ちになりたくなかった。綺麗なもの、かわいいもの、いい匂いのもの、甘いもの、幸せしか感じられないように作ってくれればよかったのに。そうすれば、あの腕と長い髪の檻の思い出だけで、なんの屈託もなく、笑っていられたのに。
「あ〜あ!つまんなくなっちゃった!」
突然上がった大きな声は深夜の街に響き、数少ない通行人がチラチラと視線をよこす。そのうちの1人はひどく酔っ払った女性で、「わかる〜!それな〜!」と言いながら乱数のそばへ寄ってきた。
「オネーさんもつまんないの?」「そそ!も〜酒飲むしかすることねぇ!」「あは!大変そー!」
誰とも知らない人間に、適当な相槌を打って遊ぶのは嫌いじゃないから。
「……飴村くん?」
それを邪魔するヤツは嫌い、で、良いのだ、多分。
低い声が鼓膜に染み付いているせいで、見なくても誰か分かってしまう。
どうしてこんな簡単に、見つかってしまうのか、この男にはきっと死ぬまでわからないんだろうと思う。
その足の選ぶ道を、頭よりも、身体よりも、心が覚えている。
振り向こうとするとき、自分のまぶたに、頬に、唇に願う。
できるだけ、でいいから、どうか上手に笑ってくれと。
「こんな時間に何をしているんです」
「うるさ〜い!ジジイは寝る時間じゃないのぉ?」
酔っ払いの女性は、缶チューハイを片手にもう何処かへ行ってしまった。
風の吹かない新宿の街中にあって、長い髪は針金のように真っ直ぐだった。ただ、その長い脚が動くのに合わせて、微かにさらりと揺れてみせる。
「みだりに此処の治安を乱さないでもらえるかな」
忌々しさを隠さない表情を見るたびに思う。きっとこの男にこんな顔をさせるのは自分だけだと。
(なんでそんな顔するのさ)
腹立たしくて、悲しくて、苦しくて、誇らしくて、嬉しくて。
(もう僕のことなんてどうでもいいくせに)
そして少しだけ切ない。
(わっかんね〜)
「自分のディビジョンに帰りなさい」
諭すような言葉の、声色は優しくなんてない。細められた眼差しは透き通って冷たいのに、完全燃焼の静かな炎の色だ。
「やぁだよ!ばーか!」
膨らんだ憎しみを同じ大きさで打ち返すのは疲れるんだって、わかってるのかな?わかってないよな。
「ハァ」
ため息の音は嫌いだ。逃げるのは幸せじゃない、自由だ。ぱし、と掴まれた部分から血が沸いて、全身が。
(あつい)
「……なぁに?相手してくれるの?」
「……とりあえずこっちにきなさい」
ぐちゃぐちゃになりたい夜は、シブヤから、シンジュクまで歩く。
今日で全てが終わればいい、だなんて、思ってもいない願いと手を繋いで、くるくると踊りながら。
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これが恋なら、上手に忘れられたのに
これが愛なら、きれいな思い出にすることだってできたのにGood night, loser. -nightmare-
「乱数は?」
幻太郎と帝統の会話はボクにとって、小鳥のさえずりのようなものだから、急に話を振られるといつも困ってしまった。でも幻太郎はそのことを良く分かっているから、すぐにボクにもわかるように聞き直してくれる。
「乱数は信じますか?運命の赤い糸」
うんめいのあかいいと。その言葉を合図にして、左手の薬指の付け根に、何かが絡みつくような幻覚。あぁ、嫌だな。
「……えぇ~何ソレ」
「意外や意外、帝統は信じるそうですよ」
「そうはいってねーだろ」
幻太郎と帝統のふざけた声色はいつも通りなのに、左手指先から体温が奪われていくような感覚は、いつもとは違う。
つーかなんでうんめいのはなしになってんだよ。おや?ちがいましたか?おれがしてたのはうんめいじゃなくてうんのはなしだ。だいたいおなじでしょう?まったくちげーよ。
「なぁ乱数」
名前を呼んで振り返る帝統の馬鹿っぽい顔も、わざとらしくきょとんとした幻太郎の顔も、いつも通りなのに。
「……」
その向こうに、灰色の、いや違う。本当は綺麗な青色をした瞳がみえて、苛立ちを制御できなくなる。
“飴村君”
「ばかじゃないのぉ」
薬指にからまるのは、赤い糸なんかじゃない。
“飴村君”
「そんなもの、あるわけないじゃん」
ホログラムみたい、光に透けて色の変わる長い、長い髪の毛だ。
“飴村君”
「そんなもの、あったら×××だよ」
あぁ、薬指が痛い。
××××××××××××
「飴村君」
目を開けた、つもりだった。けれど視界は暗闇だ。何度か瞬きを繰り返して、自分が覚醒しているのか、そうでないのかを確認する。両目を覆う、多分、レースの布に引っかかるから、自慢の長い睫毛が今は鬱陶しかった。
(ゆめ、か)
意識的に少し深く呼吸をすれば、不愉快なアルコールの匂い。指先に触れるシーツは硬くてごわごわとする。
「飴村君」
(こっちは夢じゃなさそうだな)
起き抜けに聞くのが世界で一番嫌いな人間の声ならば、ずっと夢の中で二人のさえずりを聞いて居たい。そんな気持ちでもう一を目を閉じたら、ウィンと機械音がしてベッドが動く。勝手に持ち上がる上半身に、チッと大きく舌打ちをした。
「ちょっと、何?嫌がらせ?」
「……朝ごはんだよ」
その声の後、かちゃんと微かな音がして、アルコールの匂いを、何かダシのような匂いが覆う。きょうの朝ごはんは和食だよ、聞いてもいないのにそんなことを言う。ギギギと聞こえてきた音は、備え付けの椅子を引きずる音だ。
「いらないって言ってんじゃん」
「そう言うわけにはいかない。今、君は私の“患者”だからね」
世界で一番嫌いな声に、世界で一番言われたくなことをいわれる。衝動で舌を噛みちぎりそうになるのはしかし見とがめられて、長い指に顎を取られればいやでも口が開いた。
「今日は大人しくするように」
ほとんどむりやり流し込まれるのはリュウドウショクとかいうやつで、咀嚼しなくても食道を通っていってしまう。ほとんど液体みたいな何か。味は今日も、はっきりは分からなかった。
「おいしいかな」
もし返事が出来る状態なら、クソまずい、もうやめろと喚き散らして殴り飛ばしていただろう。
「まだわからないのかい?」
返事が出来る、状態ならば、だ。
「……」
テリトリーバトルのことは、正直よく覚えていない。負けられない、負けたくない、勝つためだったらなんだってする、そう思って何かを叫んだことしか覚えていない。
「まったく、自分で自分の五感を殺すなんて」
一番最初に戻ったのは聴覚。大嫌いな声で目覚めたときは、酷い悪夢に泣きたくなった。
「本当に愚かだね」
次に戻ってきたのは嗅覚。嫌悪感しか湧かない病院の匂いが突然肺を満たしたときは、思わずえずいた。
「自分のものだからと言って、身体を粗末に扱っていいわけじゃない」
一方的に説教をきかせながら、無理矢理何かを流し込まれる。味覚は正直、まだあまり戻っていない。
はい、おしまいだよ。他の感覚が鈍いせいか、聴覚と嗅覚は鋭くなったようなのが忌々しい。小さな声でもよく聞き取れた。口元を拭う柔らかい布からは、懐かしい、花みたいな匂いがした。
「それじゃ、アイマスクを変えようか」
突然視覚が戻ったとき、強い光が目を傷めないようにと寂雷はレースの目隠しをボクにあてがった。そんなこと言って、きっとただのジジイの悪趣味だ。何色が良い?と毎日聞くけれど、ボクは返事をしてやらない。
「今日は紫色にしようか」
花の香りを纏っているのが、レースの目隠しなのか、寂雷の長い指なのかは探らない。ほほにサラリと揺れた指先に、びくりと背中が震えてしまう。
優しくされればされるほど、虚しくて虚しくて仕方ない。自分が今、かわいいかわいい“クランケ”のうちの一人になり下がったことを、絶え間なく突きつけられている。
いつだっただろう。この男がこの世の全てを“平等”に愛そうとしていることに気が付いたのは。
その他大勢にカウントされるなんて許せなかった。誰にとっても特別でいなければ気が済まなかった。この世の全てを愛そうとする人間のたった一人になるためには、憎まれるのが早い。そう思ったのが多分、間違いだった。
「はい、できた」
憎悪をできるだけ膨らませるために、嫌い、嫌いと吐くだけ吐いた。内側から響く言葉は、どんどん本当になってくる。
そのせいで苦くなる舌の上を甘いキャンディでごまかして、舌を噛む代わりにそれをかみ砕いた。
負けるわけにはいかなかった。強い言葉を吐くために、強い感情が欲しかった。だから舌の上をたくさん汚したのに、そのせいでボクは逃げだすことさえできなくなった。
「飴村君、口を開けなさい」
口調は気持ち悪いくらいに穏やかなクセに、ボクが言うことを聞くと思っていないから、唇をこじ開けてくる長い指は少し乱暴だ。噛みちぎってやりたいと思うのに、苦くて臭いゴム手袋で喉奥を圧されるからそれもできない。
無理矢理開けられた口に、今日も押し込められるのは、少し前まで気に入って舐めていたロリポップ。
「何味かわかるかい?」
甘いことは分かる。分かるのに、香りや風味がわからない。適当に「ぶろう」とこたえたら、ふぅ、と深いため息が聞こえた。
「正解は、りんごだよ」
あぁ、今日もテストには不合格だ。口に入ったままのキャンディをもう一度舐めると、確かにりんご味のような気もしたし、騙されているような気もした。右手で棒を探り、舌の上でくるくると回してみるけれど、結局よくわからない。いちど口から出してみても、やっぱりただ甘いだけだった。
「それじゃ、私は仕事があるから、飴村君」
呼ぶ声に、さっきの夢がフラッシュバックする。薬指に絡むのは、刺すように煌めく、紫色の長い髪の毛。
「大人しくしているように」
ドアの開く音、鍵のかかる音、寂雷は足音をあまり立てないから、その瞬間に気配は消える。
(痛い)
消えるのに。
(いたい)
左手薬指の付け根に絡むそれは、振りほどこうともがけばもがくほど、きつく食い込んでいく。
「クソ、ジジイ」
本当は知っていた。彼の知らないところで、彼の忌むことを繰り返しながら、彼のことなんて忘れて、気持ち良く、楽しく、シアワセになるのが、一番の復讐になることを。
そうしないと、自由になんてなれないことも。
「もう、ほんと、サイアク」
それなのに、どうして選んでしまったのだろうか。戦うことを。
「嫌い、大嫌い」
どうして忘れられないのだろうか。昔の昔、前世の記憶なんじゃないかって思う程遠いいつか。胸元のタイピンに絡んだ長い髪の毛を、上手にほどくことができなくて、裁ちばさみで刃を入れた、あのときのことを。
‶乱数は信じますか?運命の赤い糸"
「ちがうよ、幻太郎」
紫色の髪の、まだ生きている方はさらりと離れていったのに、胸元で死んだそれはぐちゃぐちゃとお気に入りのリボンに絡んで醜かった。
「運命の糸は赤くないし」
醜い残骸の絡んだリボンを解く長い指からは、甘い匂いがした。ベッドに落ちた髪をつまもうとしたら、その手を取られて薬指を噛まれた。
「そんなもの、あったらじごくだよ」
そうだ、ここは地獄だ。
右手のロリポップを咥えて思い切り歯を立てる。ガリッ乱暴に噛み砕くとき、じわっと染みるように広がる甘さ。
「……あま」
そそのかすのはヘビ。失うのは楽園。本当でも嘘でも、悪趣味なセレクト。
薬指の痺れがじわじわと腕を伝って、全身を支配するような錯覚が怖い。長い髪に結ばれて、操り人形になってしまう?
酷い現実から逃げるには、眠ってしまうほかに方法がないから、何も映さない瞳を瞼にしまう。しかしそのとき目隠しから花の匂いがしたせいで、瞼の裏に紫色がさらりと流れて。
「……サイアク」
逃げ場はどこにも、無いらしかった。 -
これは恋じゃない
まして愛なんて呼べるシロモノじゃない
征服欲か性欲かわからない
どちらにせよやることは変わらないGood night, loser.
二人が姿を消して、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
消毒液の匂いは、ここが病院であることを嫌でも思い出させる。アルコールの清潔さと、何かの腐臭の混ざった臭いを感じたくなくて口でばかり呼吸をしていたせいだろうか、唇が渇いて仕方がない。なのに、上半身を起こして視線で探したコップの中には、何も入っていなかった。
身体を包む白いシーツは清潔で、痛みも随分落ち着いた。それなのに、すう、と深呼吸をするたび、胸が苦しいのは何故なのだろうか。
「調子はどうだい?」
「……ッ」
ふいに聞こえてきたその声は、穏やかで優しい。けれどまだ、まだ慣れなくて怯えてしまう。
紫色の長い髪からは、揺れるたびに花のようなにおいがする。その香りで少しだけ落ち着く気がするのに、すぐに消毒液の匂いに枯らされてしまうから結局不安は据え置き。
すらりとした指が空のコップに伸びて、おおきな薬缶から温かいお茶をそっと注ぐ。差し出されたそれを受け取ると、指先がふわっと温まる。
「いちにぃ、は」
俯いたままの視界の隅で、紫色がゆらゆら揺れて、きっと首を横に振っているのだろう。
「一郎君もニ郎君も、こちらには戻っていませんよ」
もう何度目かの、残念なお知らせ。期待はしていなかったはずなのに、その返事を聞く度に心が沈んでいく。コップの中で揺れるお茶に舌先を浸せば、適温だった。
火傷するくらい熱い方が、それを理由に苛立つこともできるのに。
最後の記憶は敗北。テリトリーを奪われて逃げ込んだのは新宿。最初は三人一緒にいたのに、気が付いたら一郎が姿を消していた。
「取り戻してあげるから」
きっと、その後を追ったのだろう。怪我の治らぬうちに、今度は二郎が姿を消した。
長い間離れることなんてほとんどなかったから、寂しさは早々に慢性化した。低調な気分は時間の経過を正しく認識できないでいるから、二人がいなくなってどのくらいの時間が過ぎたのかがわからない。
「君はここから出てはいけないよ」
「……」
できることなら、今すぐにでも二人を探したい。しかし今ここから外に出れば、いつ誰に何をされるかはわからない。怪我も十分に癒えていないのに無謀なことをすれば、他でもない、誰よりも大切な家族を、兄弟を傷つけることがわかっているから、動けない。
明らかな敗北を経験してしまった今、否定しようとすればするほど、自分は子供だと、被保護者であることを思い知る。
爆音の罵倒、獰猛な視線、威圧する姿勢、こわいおとなの低い声が聞こえてきそうで、思わず耳をふさぐと、花の香りに包まれる。
「大丈夫かい?」
安らぎを覚えながらも、それさえ弱さの証明に思えて、奥歯をかみしめたとき。
「神宮寺先生、失礼します」
病室の扉が開いて、頭を撫でてくれていた手が止まる。
「来客です、アポはないそうですが、横浜から……」
「失礼」
割りこむように聞こえた声に顔を上げたとき、こちらを射抜くその、ガラスみたいな冷たい青さは。
「……あ、」
瞳の色だ。
「小官のことを覚えているだろうか」
爆音の罵倒、獰猛な視線、威圧する姿勢、こわいおとなの低い声。
「……え、あ、どうして」
忘れられたなら、どんなに良かっただろうか。
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「本当に、気持ちが良いくらい馬鹿なガキですね」
声は鋭利に冷たく響き、部屋に満ちたタバコの匂いをかき混ぜる。不本意な仰向けの姿勢、まだ癒えていないわき腹の青い鬱血をぐう、と押されて、あぐ、と情けない声が出た。
手袋を外すとその手はひどく冷たくて、でも、どうしてだろう。無機質な布の肌触りよりは、幾分かマシなような気がするのは。
「あ、やめ、んあぁ」
しかし、自分の喉から出ているとは思えない粘ついた嬌声が思考回路を引きちぎるから、その理由はもう探せなかった。
「自分に何か、できると思っていたんですか」
「ん、あ˝」
体のありえない部分が、ありえない使い方をされて、ありえない感覚を生んでいる。この拷問みたいな時間が始まって、どのくらいの時間が経ったのだろうか。
「負けた相手のアジトに満身創痍で飛び込んで」
せめて自由になる口で罵倒を浴びせかけたいと思うのに、頭が真っ白で何も思いつかない。ばちん、と思い切り腰を打ち付けられれば両目の奥で火の粉が飛んだ。
「無事で済むとでも思っていたのか?」
そんなの俺が聞きたい、と思った。正直に言えば、何も考えていなかった。ただ兄を取り戻したい一心だった。信じて待つとか、他のやり方を考えるとか、そういう能力があればよかったと思った時にはもう遅かった。
「左馬刻にネズミ退治を押し付けられた時は腹が立ったが」
いつの間に、忘れてしまっていたんだろう。この世界には、悪い大人が掃いて捨てるほどいるということ。自分たちが敵に回したのが、その中でも質の悪い奴らだったことを。
もしかしたら、心のどこかで甘えていたのかもしれない。“尊敬する兄がかつて尊敬していた男とその仲間たちが、卑劣な行為をするわけがない”なんて。
「捕まえてみればなかなか、良い声で鳴くワンちゃんだ」
クスリは使っていないはずだが随分良さそうじゃないか、だと?そんなわけあるかと否定したいのに。
「い˝っ……」
喉から漏れるのは嗚咽にも悲鳴にもならないおかしな音ばかりだ。
兄の足跡をたどり、MTCの拠点に足を踏み入れた俺を待っていたのは入間銃兎だった。潔癖そうな手袋の指先で、必要以上に磨かれた眼鏡のブリッジを上げて、見下ろす瞳はあの日と同じ。怪我が十分に癒えていない状態ではロクに抵抗などできる訳もなく、慣れた手つきで拘束されたときも、でも、まさかこんなことになるとは思っていなかった。
いっそ、リンチを受けて瀕死に陥るくらいの方が、現実的な妄想だった。
“流石に、殺人犯にはなりたくないですからね”
何人か殺していそうな凶悪な笑みを浮かべながら、着ていた服は刻まれた。
“ズタズタにするのはプライドの方にしましょうか”
お気に入りのシャツはきっとただの布切れになって、部屋のどこかに落ちているだろう。
「公式戦で負けてなお、噛みつきに来るなんて」
言いながら入間が前かがみになる。下半身を繋げたままだから、男の一部が一層深く沈みこんで下腹部が痛むほど苦しい。
「もっと辱めておけばよかったかな?」
「ひぐっ」
わざとらしすぎて寒気さえしそうな、子どもあやすような甘い声、耳朶から鼓膜に直接流し込まれる振動。
自分を口汚く罵倒するためにあるかのような声帯。頬を撫でる仕草さえ、まるで子供や小動物にするように優しく、優しければ優しいほど屈辱的だ。
「はやく」
それなのに。
「はやく絶望しなさい」
(あ、また)
ときおり瞳の奥の奥に、例えば兄が見せるような慈愛が滲むのを見つけてしまうのは何故だろう。
瞳の色が緑色だから?
自分の中にある“馬鹿”で“ガキ”な、自分の無邪気な部分がまだ、入間銃兎という人間を憎むのを許してくれない。
「望みを手放せば、楽になりますよ」
悪者ぶって痛めつけて、警告する。“悪い大人に近づくな”“戦いの世界に身を置くな”と。自分のしている最低な行為に傷つきながらこの人は俺を犯している。
「あ、あ˝」
本能がそれに気づいてしまうから、どんなにひどいことをされても俺は絶望“できない”のだ。
「ぜつぼ、なんて」
だってお前気がついていないのか?与えられるのは快楽ばかりだ。痛みしかない方がいっそ楽だった。
「してやる、も、んか、アぁッ!」
口ではしきりに俺を傷つけようとするくせに、その手は気持ち悪いくらいに、優しい。こんなヌルい拘束じゃぁ何時間続いたって耐えられてしまう。
「……ックソガキめ」
この甘い拷問が終わった時、俺はどうなっているんだろうか。しかしそんな思考もまた快感に押しつぶされて、ここにはもう二匹のケモノしかいなかった。
===================
固い床についた手のひらとひざが冷たく痛む。まさか自分が、床に額を擦り付けるような姿勢になる日が来ようとは。少しでも気を抜いたら理性が失せて、今自分を見下ろす男に殴りかかってしまいそうだから、出来るだけ脳の動きを止めた。
「……俺のことは、どうしてくれても構わねぇ」
ハァ、とわざとらしいため息の音が聞こえる。顔を見なくても、男がどんな顔をしているかは分かる。この上ない屈辱、恥辱。負けた男につける格好が無いのはもちろんだがしかし、負けを認められない男はもっと情けないのだ。
「だから……」
テリトリーバトルでの敗北のあと、のこのこと池袋に戻れるはずもなく寂雷を頼ったのは正解だったとは思う。しかし分かりやすすぎる逃避先が相手に割れないはずもなく、早々に“お迎え”が来た。
「弟には手を出さないでくれ」
簡単にその条件をのんでくれる相手ではないことは分かっている。でもそれが譲れない一線である限り、こうして頭を下げることも辞さないという覚悟を見せるのは、ひとつのケジメのつけ方だと、思っていた。
「……ハァ」
嗅ぎ慣れていたはずのタバコの煙がどうしてこうも鼻につく。返事のないのに焦れても顔を上げないのは、そういう“作法”の必要な相手だと“知って”いるからだ。
ゆったりとわざとらしい足音の後、視界にブーツの黒い爪先。憧れて買った同じブランドの靴を靴箱の奥にしまい忘れていたことを、どうして今思い出すのだろう。
「ちげぇだろ」
囁くような声のあと、左手のすぐ横に火のついたままの煙草が落ちてくる。
「違ぇだろ一郎ォ」
じっと見つめていた黒い爪先に顎をすくわれて、無理矢理に顔を上げさせられる。
見下ろす瞳は、燻る煙草と同じ赤色に光っている。
「俺がしてぇのは貴様んとこのガキの話じゃねぇ」
その奥に、青い光をたたえているのを知ったのはいつの日だったか。昨日のことだったようにも思えるし、生まれる前から知っていたような気もした。
「コッチの世界で立ちまわってる俺らに」
“さまときくんがのぞんでいるものがわかるかい?”
いつか誰かにそう聞かれたときは、質問の意図すら理解できずに首を傾げたけれど。
「中坊だの高坊だのが勝てないことなんて馬鹿な貴様でもわかるだろうが」
今同じことを聞かれたならば、何も言わずに頷くだろう。
「ガキどもかばいながら撃ったライムで俺が倒せるとでも思ってやがったのか?」
舐められたもんだぜ、と吐き捨てながら身を翻す。黒いブーツが遠のいていく。その声に含まれた“悲しみ”を嗅ぎ分けられるのは、きっと世界で自分だけだと思う。
「本気のお前とやれねぇ勝負に意味なんざねぇんだ」
きっと道を違えたあの日からずっと、“仲間”ではなく“敵”として正面からにらみ合う日を待っていた。
「マイク出せ」
自分も、左馬刻も。
「マイクだせっつってんだこの野郎ォ!」
左馬刻が何かを蹴り飛ばし、ガチャンと大きな音がする。何かの破片が一郎の頬にパチンとぶつかって、それを合図に立ち上がる。
身長は並んだはずなのに、どうしてまだ、自分より大きく見えるのか。
「俺が勝ったらお前、俺のところに来い」
結局殺せなかった憧憬、昇華できなかった劣情、手放せなかった支配欲。
「お前が勝ったら、そうだな」
忘れたふりを続けていれば、本当に忘れられると、思っていたのに。
「このマイクの代わりに、貴様のイチモツに右手添えて」
心にもない、下品な言葉を並べて挑発する。
「扱いて、しゃぶってやるよ」
その舌の赤さは、昔とちっとも変わらなかった。
ブオォォォン
響くのはマイクの起動音ふたつ。後のことなんてもう何も、考えられなかった。