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足元に転がるかんざしは、又兵衛の大切にしていたものだった。家を出るとき母から預かったそれは、しっかりとしまってあったはずだ。
手に取れば、すぐそばでうずくまっていた松寿丸の肩がびくりと跳ねる。
「…」
無言で眺めたかんざしは、漆塗りの細い棒の先に赤い玉のついたシンプルなものだ。使用感のない滑らかな黒が、玉の先の先端でパキリと欠けていた。
「…若」
思っていたより低い声が出た。先ほどと同じように小さな肩が目の端でふるえている。
床に残る欠片を拾うときにちらりと見たとき、松寿丸は今にも泣きだしそうな青い顔をしていた。
「またべ」
震えた声が耳に届いても、心の中にともった怒りが収まる気配はない。
「すまなかった」
か弱い声が静かな部屋に響く。絞り出すようなその声から、反省していることは分かった。これはとても珍しいことだ。若が自分から謝るなんて。
「壊すつもりはなかったのだ、ほんとうに、」
しかしそれは、許す理由にするには足りなかった。
「出て行ってください」
言い募る松寿丸の声を遮って、又兵衛は静かに言った。
「またべ、」
「この部屋から、出て行ってください」
そうでないと、きっとひどいことを言ってしまう。反省している相手に、自分よりも随分幼い彼に言っても仕方のないことを、確実に傷つける言葉を、吐き出してしまう。
拳を握る手に力がこもる。うつむいているから、松寿丸の顔はうかがえない。しばらくして、布のこすれる音がして、障子が空いて、閉まる音がした。
その瞬間、ふう、と息をついた又兵衛はすとんと床に膝をついた。握りしめていた拳を開いて手のひらを見れば、案の定爪の跡が残っていた。
「ックソ」
爪痕の残る手のひらには、先の欠けたかんざし。元の形を失って、無様だ。
もう嫌だ、と又兵衛は思った。今年十四になった彼は、六つの子どもに振り回されるのに疲れていた。
彼が生まれたころからずっと一緒に、それこそ兄弟のように育った。自分を息子のように可愛がってくれる君主の息子だから、自分も大切にせねばならないことは分かっているし、大切にしている、つもりだ。
(いつまで続くのか、一生か)
しかし、兄弟のように育ったとはいえ、立場が違いすぎる。松寿丸は跡継ぎ、自分は家臣。
又兵衛もまだ育ちざかりの男児である。松寿丸の行動に苛立つことも、邪魔に思うことも、汚い言葉で叱り飛ばしたい時もある。
昨日だって、どこかから持ってきた木の枝を振り回して、取り上げるのに随分苦労した。その前は、又兵衛が書を読んでいるというのに遊べとうるさく騒ぎ、一緒に城下町に出た時には金平糖が欲しいと駄々をこねた。
全部、我慢してきた。自分のやりたいことを邪魔されても、子供特有のわがままで困らされても、鬱陶しいと思うことすら、自分に禁じていた。
(兄弟じゃ、ないから)
それももう限界だと、割れた簪を眺めて思う。頭に上った血はもう下がったが、疲れが両肩にどすん、とのっているような感覚がある。
(そういえば、今日は朝から調子が悪かった)
ふらふらする体を横たえる又兵衛の脳裏に浮かんだのはそれでも、顔を青くして泣くのを耐える松寿丸の顔で、胸の奥がずきりと痛む気がした。
(またべえ、怒ってた)
又兵衛に追い返された後、松寿丸は縁側に腰掛けて一人で庭を眺めていた。出て行けといった又兵衛のを思い出す。普段とは違う冷たい態度に、いつもの強気もなりを潜めた。
(もっと怒られるかと思った)
又兵衛があのかんざしを大切にしているのは松寿丸も知っていた。つい最近これは何だと騒ぐ松寿丸に、ため息とともに教えてくれた。それが、母親からもらったものだということも。
忘れられなかったのは、そのかんざしを見つめる又兵衛のことだ。
とても優しくて、少し悲しそうな顔をした。これは私が母からもらったものです、そう言っていた。その時寂しいようないらいらするような気持ちがして、あまり良くない返事をしたのを覚えている。
(またべえは、兄ではない)
幼い松寿丸も、それは理解していたけれど、それが気になったことなんてなかった。あのかんざしを知るまでは。
又兵衛には、本当の両親と本当の兄弟がいる。それを懐かしいと思う気持ちがある。もしかしたらここにいるより、本当の家族と一緒にいたいのかもしれない。そういえば最近、ちょっと冷たいような気もする。
幼い身には余るようないろいろな気持ちは、悔しさや寂しさに変わって、かんざしの印象を悪くした。
だから、あのかんざしを又兵衛から取り上げてしまおうかと思った。寄越せと強請りに行こうと思って訪ねたら、又兵衛は部屋にいなかった。
勝手にかんざしを出す時はドキドキしたけれど、壊すつもりなんてなかった。手に取って立ち上がった時、袴を踏んで転んでしまった。かんざしは体の下敷きになって、欠けてしまった。
又兵衛が戻ってきたのはそのすぐ後だった。どうしたらいいのかわからなくて、うずくまることしかできなかった。
出ていけ、と言われたとき、その声の冷たさに、こらえた涙が溢れそうになった。
(まだ怒ってるかな)
多分怒っているだろう。ならば自分のしなければいけないことは分かっている。
(もう一回ちゃんとあやまらなければ)
松寿丸は唇をきゅ、と結ぶと、すっと立ち上がった。
しかし、意を決して向かった又兵衛の部屋には、侍女たちがせわしなく出入りしており、近づくのが少し憚られた。
(何かあったのか)
少し離れたところから様子をうかがうと、侍女の一人がこちらに気が付いて駆け寄ってきた。
「松寿丸様!」
侍女はいかにもホッとした、という表情で、小さな松寿丸の両肩をさする。
「具合が悪いところはございませぬか」
「だいじょうぶだ」
この様子だと、又兵衛に何かあったのは違いなかった。不安が胸を締め付ける。
「又兵衛に何かあったのか?」
「それが先ほどお部屋で具合が悪そうにしているのが見つかりまして」
体がお熱くて、今寝床と薬を整えているところでございます、そういう侍女の言葉に、足は自然と又兵衛の部屋へと向くのだが。
「松寿丸様、お見舞いは後になさいませ」
そういって手を引いて、松寿丸を台所に連れていく。
「一緒に瓜を切りましょうね」
やさしい侍女の声は右から左へ通り抜けていく。
(またべえが、病気?)
自分が悪い子だったから、神様は自分から又兵衛を取り上げようとしているのじゃないか。
幼い松寿丸の心にはいっぱいの不安が広がるばかりだった。
///////////////
目覚める間際の、ぼんやりとした意識の中で、子供の泣く声がする。
(…若?)
鼻をすする合間に、震える声がする。
「すまない、すまない、またべぇ」
泣くな、と頭を撫でてやりたいのに、体も瞼も腕も重くて何一つ動かせない。
「いい子にするから」
その言葉に心のどこかが冷える気がした。泣かせているのは誰だ。
「またべえ、いなくなるな」
その声が耳に届いた瞬間、ぱちり、と目が開いた。
「ッ、若!?」
しかし、傍らにいるはずの松寿丸の姿はなく、夢だったかとため息をつく。
起き上がりながら、自分はどれほど眠っていたのだろうと思いをめぐらす。よく見れば寝床も整えられているし、着物も替えてある。そういえば横になった後で侍女がやってきて、何か騒ぎながら世話をしてくれたような記憶もある。
(体調を崩すとは…)
情けないなと自嘲する。体のだるさはあるので、まだ熱も引いていないだろう。そのうち誰かが来るだろうから、それまで横になっていた方がよさそうだ。そうおもってもう一度体を横たえるとき、枕元に何かがあるのに気が付く。
「花?」
そこには、紐でくくられた薄紫の花が数本、そっと置かれていた。
考えるまでもなく、こんなことをするのは。
「若、」
ということは、あれは夢ではなかったのだろうか。
胸に痛みを感じながら、紫色の小さな花弁を撫でれば、摘みたての草の青いにおいがした。
「若、」
心にあった怒りが次第にしぼんでいく。自分のために慣れもしない花摘みをする姿が容易に思い浮かぶくらいには、もうずっと、そばにいたのだ。
なぜあのかんざしを出してきて、なぜああなったのか、しっかり聞いてやらねばなるまい。返事次第では、しっかり叱ってやらねばならない。それが自分の務めだと、改めに心に刻まれた気がする。
またきっと見舞いに来てくれるだろうから、その時は頭を撫でて礼を言おうと、又兵衛が口元に笑みを浮かべた、その時だ。
「何だ?」
俄かに外が騒がしくなる、バタバタと人の駆ける音、焦ったような声も聞こえる。何事かと自室から顔を出せば、そこには血相を変えた母里がいた。
「どうさかされました」
「おぉ又兵衛、よくなったか」
そう声はかけるものの、そんな世間話をしているような場合ではないようで、話している時間も惜しいとばかりに、母里は続ける。
「実は若がな」
その言葉に背中が冷えるのがわかる。
「どこにもおらぬのだ」
屋敷中探しているのだが見つからん、調子がよくなったら手伝ってくれといって母里は去って行った。
原因はきっと自分にあるのだろうと、疑うことなくそう思った。それならばじゃぁ、松寿丸が向かいそうなところは。
机上に置いたままのかんざしが目に入る。脳裏に閃いた場所へと、着替えもそこそこに部屋から躍り出た。
目指すは城下、体の重みなど無視して走る。はやく抱きしめてやらなければと、足がもげるほどの勢いで走った。
///////////////
(どこだ、ここは)
人ばかりの城下町で、松寿丸は一人、立ち尽くしていた。
絶え間なく人が行きかう通りは騒がしく、松寿丸の大きさではどこに何があるかも見分けるのは難しい。
賑やかな街並みは溶け込めない松寿丸をもっと一人ぼっちにするようで、寂しさが募る。
探しても、探しても、目当てのものは見つからなかった。かんざしを治すための膠(にかわ)を探しに降りてきたのだが、どこで売っているのか、何屋にあるのかもわからないまま、きょろきょろと探し回っていたら道に迷ってしまったのだ。
立ち止まった場所のすぐそばには、以前又兵衛と見た店があった。あの時は店先の金平糖が欲しくて、又兵衛を困らせた。
「兄ちゃん兄ちゃん、コンペイトーだよ」
「ばか、そんなもの買う銭はねぇよ」
「けち!あはは!」
そんな長政の耳に、そんな会話が入ってくる。どうやら兄弟が、店の前を通り過ぎて行ったようだ。
目で声を追うと、自分と同じくらいの弟が、又兵衛よりもすこし小さいくらいの兄に手を引かれて歩いていくのが見えた。金平糖なんかなくても、随分幸せそうに見えた。
(あのとき又兵衛は何て言った)
何と言ったかは思い出せなかったけれど、随分困らせたのは覚えている。改めて店先の金平糖を見ても、全く欲しいとは思えなかった。
又兵衛が本当の兄だったら、さっきの弟のように、楽しい気持ちのままで金平糖を通り過ぎることができたのだろうか。その考えにぶんぶんと首を横に振る。
(またべえ)
もう足も疲れてしまった。夕暮れも近い。不安で押しつぶされそうで、思わずしゃがみこんだ。銭の代わりに持ってきたお気に入りの玩具も、松寿丸の手の中で情けなく無言を貫いている。こんなことになるなら、誰にも言わずに一人で出てくるんじゃなかった。こらえていた涙が溢れそうになった、その時だ
「若っ」
声のした方から、必死に走ってくる姿がある。涙でにじんで良く見えないけれど、あれは絶対に。
「またべっ」
認めた瞬間駆けだしていた。まだ広くない胸の中に飛び込めば、いつもそばにあった体温がぎゅっと自分を包んでくれる。
「帰りますよ」
「おう」
又兵衛は、帰り道ずっと松寿丸の手を握っていた。それがとても、嬉しかった。
戻った二人は官兵衛にお説教を受けた後、そろって又兵衛の部屋に向かった。ぶすっとした顔をしながら、松寿丸が離れないのだ。仕方がないので久しぶりに一緒に寝るかと提案すれば、一瞬至極嬉しそうな顔をして、慌てて表情を戻して頷くのでつられて笑ってしまった。
二人仲良く寝床に収まると、松寿丸は体を丸くして又兵衛の胸元に収まった。
「またべえ」
「はい」
「…わるかった」
何についての謝罪かは、分かっている。ずっとしかめっ面をしていたのは、謝るタイミングを彼なりにはかっていたのだとわかり、眉尻を下げた。怒っていないのを伝えるために、そっと尋ねる。
「なんでかんざしが折れたんですか」
「…またべえが、かんざしにとられるかとおもって」
弱弱しくそうつぶやく松寿丸は、丸くしていた体をさらに丸くしてそういった。その姿がらしくなくいじらしくて、思わずぎゅっと抱きしめる。
「すまなかった」
もういちど謝罪するその頭をそっと撫でて、しょうがないから許します、とそう呟けば、安心したように息をつく。頭を撫でてやっていたら、しばらくして寝息が聞こえ始めた。
(守らなければ)
いつか彼が自分を必要としなくなる日まで。その時までは。
腕の中のぬくもりを感じながら後を追うように眠りにつくとき、あの、先の欠けたかんざしはこの小さな主君に預けようと、それだけ決めた。
///////////////
(ん、う)
目が覚めると、あるはずのぬくもりがなくて、自分が夢を見ていたことに気が付く。
(随分懐かしい夢だったな)
寂しさを感じる自分がおかしくて、少し笑った。
「目が覚めたか」
余韻に浸っているとどこかからそう声がかかってはっとする。
「いたのか」
「悪いか」
そこにいたのは、明石全登で、呆けた顔の又兵衛を睨み付けた。
「気味の悪い笑い方をして、どんな夢を見ていたのだか」
寝ている時間があれば働けとでも言いたげな様子である。
「懐かしい夢だよ。昔の話だ」
その言葉に何かを察したのか、明石はもう何も言わなかった。
思い出すのは、あのかんざしだ。あの後長政にくれてやった母のかんざしは、今はどこにあるのだろうか。差し出して、持っていてくださいと言った時の驚いた顔は確かに、覚えているのだけれど。
(まだ、もってんのか)
そのかんざしが今長政の髪を飾ることを、もう忘れてるかもしれねぇなと苦笑いを漏らす又兵衛が、知ることは、ない。
手に取れば、すぐそばでうずくまっていた松寿丸の肩がびくりと跳ねる。
「…」
無言で眺めたかんざしは、漆塗りの細い棒の先に赤い玉のついたシンプルなものだ。使用感のない滑らかな黒が、玉の先の先端でパキリと欠けていた。
「…若」
思っていたより低い声が出た。先ほどと同じように小さな肩が目の端でふるえている。
床に残る欠片を拾うときにちらりと見たとき、松寿丸は今にも泣きだしそうな青い顔をしていた。
「またべ」
震えた声が耳に届いても、心の中にともった怒りが収まる気配はない。
「すまなかった」
か弱い声が静かな部屋に響く。絞り出すようなその声から、反省していることは分かった。これはとても珍しいことだ。若が自分から謝るなんて。
「壊すつもりはなかったのだ、ほんとうに、」
しかしそれは、許す理由にするには足りなかった。
「出て行ってください」
言い募る松寿丸の声を遮って、又兵衛は静かに言った。
「またべ、」
「この部屋から、出て行ってください」
そうでないと、きっとひどいことを言ってしまう。反省している相手に、自分よりも随分幼い彼に言っても仕方のないことを、確実に傷つける言葉を、吐き出してしまう。
拳を握る手に力がこもる。うつむいているから、松寿丸の顔はうかがえない。しばらくして、布のこすれる音がして、障子が空いて、閉まる音がした。
その瞬間、ふう、と息をついた又兵衛はすとんと床に膝をついた。握りしめていた拳を開いて手のひらを見れば、案の定爪の跡が残っていた。
「ックソ」
爪痕の残る手のひらには、先の欠けたかんざし。元の形を失って、無様だ。
もう嫌だ、と又兵衛は思った。今年十四になった彼は、六つの子どもに振り回されるのに疲れていた。
彼が生まれたころからずっと一緒に、それこそ兄弟のように育った。自分を息子のように可愛がってくれる君主の息子だから、自分も大切にせねばならないことは分かっているし、大切にしている、つもりだ。
(いつまで続くのか、一生か)
しかし、兄弟のように育ったとはいえ、立場が違いすぎる。松寿丸は跡継ぎ、自分は家臣。
又兵衛もまだ育ちざかりの男児である。松寿丸の行動に苛立つことも、邪魔に思うことも、汚い言葉で叱り飛ばしたい時もある。
昨日だって、どこかから持ってきた木の枝を振り回して、取り上げるのに随分苦労した。その前は、又兵衛が書を読んでいるというのに遊べとうるさく騒ぎ、一緒に城下町に出た時には金平糖が欲しいと駄々をこねた。
全部、我慢してきた。自分のやりたいことを邪魔されても、子供特有のわがままで困らされても、鬱陶しいと思うことすら、自分に禁じていた。
(兄弟じゃ、ないから)
それももう限界だと、割れた簪を眺めて思う。頭に上った血はもう下がったが、疲れが両肩にどすん、とのっているような感覚がある。
(そういえば、今日は朝から調子が悪かった)
ふらふらする体を横たえる又兵衛の脳裏に浮かんだのはそれでも、顔を青くして泣くのを耐える松寿丸の顔で、胸の奥がずきりと痛む気がした。
(またべえ、怒ってた)
又兵衛に追い返された後、松寿丸は縁側に腰掛けて一人で庭を眺めていた。出て行けといった又兵衛のを思い出す。普段とは違う冷たい態度に、いつもの強気もなりを潜めた。
(もっと怒られるかと思った)
又兵衛があのかんざしを大切にしているのは松寿丸も知っていた。つい最近これは何だと騒ぐ松寿丸に、ため息とともに教えてくれた。それが、母親からもらったものだということも。
忘れられなかったのは、そのかんざしを見つめる又兵衛のことだ。
とても優しくて、少し悲しそうな顔をした。これは私が母からもらったものです、そう言っていた。その時寂しいようないらいらするような気持ちがして、あまり良くない返事をしたのを覚えている。
(またべえは、兄ではない)
幼い松寿丸も、それは理解していたけれど、それが気になったことなんてなかった。あのかんざしを知るまでは。
又兵衛には、本当の両親と本当の兄弟がいる。それを懐かしいと思う気持ちがある。もしかしたらここにいるより、本当の家族と一緒にいたいのかもしれない。そういえば最近、ちょっと冷たいような気もする。
幼い身には余るようないろいろな気持ちは、悔しさや寂しさに変わって、かんざしの印象を悪くした。
だから、あのかんざしを又兵衛から取り上げてしまおうかと思った。寄越せと強請りに行こうと思って訪ねたら、又兵衛は部屋にいなかった。
勝手にかんざしを出す時はドキドキしたけれど、壊すつもりなんてなかった。手に取って立ち上がった時、袴を踏んで転んでしまった。かんざしは体の下敷きになって、欠けてしまった。
又兵衛が戻ってきたのはそのすぐ後だった。どうしたらいいのかわからなくて、うずくまることしかできなかった。
出ていけ、と言われたとき、その声の冷たさに、こらえた涙が溢れそうになった。
(まだ怒ってるかな)
多分怒っているだろう。ならば自分のしなければいけないことは分かっている。
(もう一回ちゃんとあやまらなければ)
松寿丸は唇をきゅ、と結ぶと、すっと立ち上がった。
しかし、意を決して向かった又兵衛の部屋には、侍女たちがせわしなく出入りしており、近づくのが少し憚られた。
(何かあったのか)
少し離れたところから様子をうかがうと、侍女の一人がこちらに気が付いて駆け寄ってきた。
「松寿丸様!」
侍女はいかにもホッとした、という表情で、小さな松寿丸の両肩をさする。
「具合が悪いところはございませぬか」
「だいじょうぶだ」
この様子だと、又兵衛に何かあったのは違いなかった。不安が胸を締め付ける。
「又兵衛に何かあったのか?」
「それが先ほどお部屋で具合が悪そうにしているのが見つかりまして」
体がお熱くて、今寝床と薬を整えているところでございます、そういう侍女の言葉に、足は自然と又兵衛の部屋へと向くのだが。
「松寿丸様、お見舞いは後になさいませ」
そういって手を引いて、松寿丸を台所に連れていく。
「一緒に瓜を切りましょうね」
やさしい侍女の声は右から左へ通り抜けていく。
(またべえが、病気?)
自分が悪い子だったから、神様は自分から又兵衛を取り上げようとしているのじゃないか。
幼い松寿丸の心にはいっぱいの不安が広がるばかりだった。
///////////////
目覚める間際の、ぼんやりとした意識の中で、子供の泣く声がする。
(…若?)
鼻をすする合間に、震える声がする。
「すまない、すまない、またべぇ」
泣くな、と頭を撫でてやりたいのに、体も瞼も腕も重くて何一つ動かせない。
「いい子にするから」
その言葉に心のどこかが冷える気がした。泣かせているのは誰だ。
「またべえ、いなくなるな」
その声が耳に届いた瞬間、ぱちり、と目が開いた。
「ッ、若!?」
しかし、傍らにいるはずの松寿丸の姿はなく、夢だったかとため息をつく。
起き上がりながら、自分はどれほど眠っていたのだろうと思いをめぐらす。よく見れば寝床も整えられているし、着物も替えてある。そういえば横になった後で侍女がやってきて、何か騒ぎながら世話をしてくれたような記憶もある。
(体調を崩すとは…)
情けないなと自嘲する。体のだるさはあるので、まだ熱も引いていないだろう。そのうち誰かが来るだろうから、それまで横になっていた方がよさそうだ。そうおもってもう一度体を横たえるとき、枕元に何かがあるのに気が付く。
「花?」
そこには、紐でくくられた薄紫の花が数本、そっと置かれていた。
考えるまでもなく、こんなことをするのは。
「若、」
ということは、あれは夢ではなかったのだろうか。
胸に痛みを感じながら、紫色の小さな花弁を撫でれば、摘みたての草の青いにおいがした。
「若、」
心にあった怒りが次第にしぼんでいく。自分のために慣れもしない花摘みをする姿が容易に思い浮かぶくらいには、もうずっと、そばにいたのだ。
なぜあのかんざしを出してきて、なぜああなったのか、しっかり聞いてやらねばなるまい。返事次第では、しっかり叱ってやらねばならない。それが自分の務めだと、改めに心に刻まれた気がする。
またきっと見舞いに来てくれるだろうから、その時は頭を撫でて礼を言おうと、又兵衛が口元に笑みを浮かべた、その時だ。
「何だ?」
俄かに外が騒がしくなる、バタバタと人の駆ける音、焦ったような声も聞こえる。何事かと自室から顔を出せば、そこには血相を変えた母里がいた。
「どうさかされました」
「おぉ又兵衛、よくなったか」
そう声はかけるものの、そんな世間話をしているような場合ではないようで、話している時間も惜しいとばかりに、母里は続ける。
「実は若がな」
その言葉に背中が冷えるのがわかる。
「どこにもおらぬのだ」
屋敷中探しているのだが見つからん、調子がよくなったら手伝ってくれといって母里は去って行った。
原因はきっと自分にあるのだろうと、疑うことなくそう思った。それならばじゃぁ、松寿丸が向かいそうなところは。
机上に置いたままのかんざしが目に入る。脳裏に閃いた場所へと、着替えもそこそこに部屋から躍り出た。
目指すは城下、体の重みなど無視して走る。はやく抱きしめてやらなければと、足がもげるほどの勢いで走った。
///////////////
(どこだ、ここは)
人ばかりの城下町で、松寿丸は一人、立ち尽くしていた。
絶え間なく人が行きかう通りは騒がしく、松寿丸の大きさではどこに何があるかも見分けるのは難しい。
賑やかな街並みは溶け込めない松寿丸をもっと一人ぼっちにするようで、寂しさが募る。
探しても、探しても、目当てのものは見つからなかった。かんざしを治すための膠(にかわ)を探しに降りてきたのだが、どこで売っているのか、何屋にあるのかもわからないまま、きょろきょろと探し回っていたら道に迷ってしまったのだ。
立ち止まった場所のすぐそばには、以前又兵衛と見た店があった。あの時は店先の金平糖が欲しくて、又兵衛を困らせた。
「兄ちゃん兄ちゃん、コンペイトーだよ」
「ばか、そんなもの買う銭はねぇよ」
「けち!あはは!」
そんな長政の耳に、そんな会話が入ってくる。どうやら兄弟が、店の前を通り過ぎて行ったようだ。
目で声を追うと、自分と同じくらいの弟が、又兵衛よりもすこし小さいくらいの兄に手を引かれて歩いていくのが見えた。金平糖なんかなくても、随分幸せそうに見えた。
(あのとき又兵衛は何て言った)
何と言ったかは思い出せなかったけれど、随分困らせたのは覚えている。改めて店先の金平糖を見ても、全く欲しいとは思えなかった。
又兵衛が本当の兄だったら、さっきの弟のように、楽しい気持ちのままで金平糖を通り過ぎることができたのだろうか。その考えにぶんぶんと首を横に振る。
(またべえ)
もう足も疲れてしまった。夕暮れも近い。不安で押しつぶされそうで、思わずしゃがみこんだ。銭の代わりに持ってきたお気に入りの玩具も、松寿丸の手の中で情けなく無言を貫いている。こんなことになるなら、誰にも言わずに一人で出てくるんじゃなかった。こらえていた涙が溢れそうになった、その時だ
「若っ」
声のした方から、必死に走ってくる姿がある。涙でにじんで良く見えないけれど、あれは絶対に。
「またべっ」
認めた瞬間駆けだしていた。まだ広くない胸の中に飛び込めば、いつもそばにあった体温がぎゅっと自分を包んでくれる。
「帰りますよ」
「おう」
又兵衛は、帰り道ずっと松寿丸の手を握っていた。それがとても、嬉しかった。
戻った二人は官兵衛にお説教を受けた後、そろって又兵衛の部屋に向かった。ぶすっとした顔をしながら、松寿丸が離れないのだ。仕方がないので久しぶりに一緒に寝るかと提案すれば、一瞬至極嬉しそうな顔をして、慌てて表情を戻して頷くのでつられて笑ってしまった。
二人仲良く寝床に収まると、松寿丸は体を丸くして又兵衛の胸元に収まった。
「またべえ」
「はい」
「…わるかった」
何についての謝罪かは、分かっている。ずっとしかめっ面をしていたのは、謝るタイミングを彼なりにはかっていたのだとわかり、眉尻を下げた。怒っていないのを伝えるために、そっと尋ねる。
「なんでかんざしが折れたんですか」
「…またべえが、かんざしにとられるかとおもって」
弱弱しくそうつぶやく松寿丸は、丸くしていた体をさらに丸くしてそういった。その姿がらしくなくいじらしくて、思わずぎゅっと抱きしめる。
「すまなかった」
もういちど謝罪するその頭をそっと撫でて、しょうがないから許します、とそう呟けば、安心したように息をつく。頭を撫でてやっていたら、しばらくして寝息が聞こえ始めた。
(守らなければ)
いつか彼が自分を必要としなくなる日まで。その時までは。
腕の中のぬくもりを感じながら後を追うように眠りにつくとき、あの、先の欠けたかんざしはこの小さな主君に預けようと、それだけ決めた。
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(ん、う)
目が覚めると、あるはずのぬくもりがなくて、自分が夢を見ていたことに気が付く。
(随分懐かしい夢だったな)
寂しさを感じる自分がおかしくて、少し笑った。
「目が覚めたか」
余韻に浸っているとどこかからそう声がかかってはっとする。
「いたのか」
「悪いか」
そこにいたのは、明石全登で、呆けた顔の又兵衛を睨み付けた。
「気味の悪い笑い方をして、どんな夢を見ていたのだか」
寝ている時間があれば働けとでも言いたげな様子である。
「懐かしい夢だよ。昔の話だ」
その言葉に何かを察したのか、明石はもう何も言わなかった。
思い出すのは、あのかんざしだ。あの後長政にくれてやった母のかんざしは、今はどこにあるのだろうか。差し出して、持っていてくださいと言った時の驚いた顔は確かに、覚えているのだけれど。
(まだ、もってんのか)
そのかんざしが今長政の髪を飾ることを、もう忘れてるかもしれねぇなと苦笑いを漏らす又兵衛が、知ることは、ない。
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