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南の島から絵葉書が届いた。旅先でも郵便物が受け取れるシステムがあることは知っていたけれど、たまたま訪ねたセンターでそれを渡された時は少し感動してしまった。ガジェットの進化も著しい昨今、紙での連絡なんて必要ないのかな、なんて思っていたけれど、手のひらと同じほどの紙板一枚でこんなにも嬉しいのは不思議だ。宿で読もうと思っていたけれど、気になって仕方がないので途中の公園にベンチを見つけて腰かける。夕暮れの公園では遊具の影が伸びて、子供たちのさよならが響く。バクフーンは大人しく、ヒビキの足元に伏せた。表には、アローラでも特に有名な海岸の写真が印刷されている。明るい水色の穏やかな渚はホウエン地方を訪れたときに眺めた海を思い出させて、なんだか懐かしい気持ちになる。でもそこには見たことのないポケモンも映っていて、まだ行ったことのない場所への憧れが一緒に湧き出た。(いいな)裏返すと、宛名の隣にメッセージが添えられている。受け取って真っ先に確認したから差出人がグリーンだというのは分かっていたけれど、つらつらと書き連ねられた近況はあまりに彼らしく、名前がなくても彼からだと分かっただろう。アローラに招かれたこと、暖かく穏やかな気候のこと、見たことのないポケモンや独特な進化形態のこと。多分言いたいことがありすぎたのだろう、狭い空白を埋め尽くす筆跡はしかし、変わらず綺麗だった。文字を追うだけでワクワクするのは、書いている人が本当に楽しんでいるからだろう。微笑ましいような、羨ましいような気持ちで追いかける筆跡はでも、すぐに最後の一行で。(あ、れ?)驚いたのは、グリーンの書いた‶bye!〟の後ろに、違う人間の筆跡が見えたからだ。硬くてぎこちなく、手紙を書きなれないのか所々にインクだまり。‶またバトルしよう〟なるほどそう言うことかと思う。グリーンがこんなに楽し気な、言ってしまえば浮かれた絵葉書を送ってよこしたのは。(レッドさんもいるんだ)思わず漏れた苦笑いは、珍しく浮かれたグリーンの隣に、どこに行ってもバトルのことしか考えていないレッドがいる光景が簡単に想像できたからだ。(いいな)ヒビキは顔を持ち上げて、次第に紺色に変わっていく空を見つめる。思い出さないようにしていたせいで、いざ思い出そうとするとうまくいかない。ばふ、とバクフーンが鳴いたので、何ともなしに顔をそちらに向ける。どこか遠くを見つめている、その視線を追いかけると。「あ」そこには噴水があった。その周りで、小さな男の子とワニノコが一緒に遊んでいた。きゃあきゃあとはしゃぐ一人と一匹はどちらも満面の笑みを浮かべている。すぐそばには母親らしい女性がいて、優しくその姿を見つめている。しかし時間になったのか、「そろそろおうちにかえるわよ」とフカフカとしたタオルを取りだすと、逃げ回る子供とワニノコを追いかけはじめた。「……お前も」彼らは元気にしているだろうか。「会いたくなっちゃった?」ヒビキが声をかけると、バクフーンはまたばふ、と小さく鳴いた。知らぬ間に陽は沈みきって、公園にはもう誰もいない。さっきの子供も、ワニノコも、目を逸らした瞬間に消えていた。弱くヒュウっと吹いた風は少し冷たく、バクフーンの背中に優しく灯る炎を揺らした。「……行こっか」ヒビキが立ち上がると、バクフーンもそれに倣う。小さな町は空がひらけていて、のぼった月は白く光り始めている。思い出して会いたくなる瞬間は何度だってあるのに、どうしたら会えるのかはわからない。今彼がどこにいるのかもわからない。ジョウトに帰れば、カントーに向かえば会える、という訳でもなさそうだというのは、この数年の経験で分かった。なのに、思いもよらない場所で出会ったり、すれ違ったりすることはある。どうすれば会えるのだろう。偶然に頼らず、必然を待たず。手を伸ばす方法は、まだ分からない。ふ、とらしくなく諦めのため息を漏らしたとき、仕舞うのが惜しくて手に持っていた絵葉書を、バクフーンが鼻先でつついた。「……あ」そうか、と思った。もちろん、届くかは知らない。うまくいかない可能性の方が高い。それでも、何もしないのは性に合わない。「そうだね」絵葉書を贈ろう。どんな景色が良いだろう。アローラの海辺よりもうんと美しくて、懐かしくて、そして、一緒に行きたくなるような。「よしっ」顔を上げると、丸い月の浮かぶ紺色の空に突きささる、白い山が見えた。
※※※※※※
ごうごうと音がする。視界は白く染まっている。肌は寒さに慣れきって、まつ毛が凍るから瞬きも重たい。(……あ)白く霞む視界の、その向こうに人影が見える。灰色に滲みながら、こちらに近づいてくる。不思議と恐怖は感じない。それどころか、待ち望んでいたような気さえ、して。知らず右手に収めていたモンスターボールをぎゅっと握ると、さく、と雪を踏みしめる音が聞こえた。安堵と緊張、焦りと余裕、冷え切ったはずのつま先から血の湧くような感覚と一緒に、左足を一歩、踏み出したその瞬間だった。「……え?」踏みしめた足裏からぶわりと現れたのは、緑色の葉、茎、蔓。一瞬で身体を覆うほどの高さになったかと思うと、荒れ狂い吠えていた吹雪を押し返すように緑色の草花がしげった。途端に陽が射し、見上げた空は目を傷めるほど青く。「……」ジワリと背中に汗をかいた。
「……ゆ、め」目を開けると、そこには吹雪もなければ、茂る緑もなかった。少し高い天井はぼんやりと青白く、カーテンの隙間から入り込んだ陽光が一本の白い線を引いている。背中にかいた汗だけは本物だけれど、マットレスもシーツも上質なら不快感はほとんどない。「……」アローラ滞在用に用意された宿泊施設は些かリゾート感が強くて、ぼくはしばしば逃げ出したくなる。雑魚寝や安宿はおろか野宿にだって慣れ過ぎていて、高級寝具は寝入りと寝起きがソワソワして落ち着かないのだ。それでもこらえてここにいるのは多分。「ん、う」グリーンが嬉しそうにしているからだ。(……おきた?)おはよう、と囁く準備をしたのに、グリーンはすう、と一つ息を吸うと、またすやすやと寝息を落ち着かせてしまった。(……ねてる)毎日のようにお互いの部屋を行き来して、別のベッドに入る日の方が少ない。この間けんかをして一人でベッドを使ったときは、あんまり広くて寂しいので手持ちのポケモンを全部出してベッドに乗せた。それはグリーンも同じだったらしく、次の日には仲直りをした。今、グリーンを置いて出て行ったら、しばらく口をきいてもらえないに違いないのだ。アローラに来てしばらくは、こんなふうにまどろみを楽しむことなんてしなかった。目が覚めると、“行かなきゃ”という気持ちに急かされて、用もないのに着替えたりした。グリーンはそんなぼくを見つけるたびに、不安そうな目をして聞いた。「どこにいくんだ」って。(……あったかい)ポケモンのあたたかさとヒトの温かさは違うって、教えてくれたのはグリーンだ。寒い夜にピカチュウを抱きしめたり、ピジョットのお腹を借りるのとは違う。別に寒く無くても、寝苦しいほどに暑い夜にだって感じていたい、大切なぬくもり。「……グリーン」起きてほしいのに、目を開けてほしいのに、ぼくには方法が分からない。グリーンはいつもぼくをひどいやり方で起こすけれど、同じやり方をしようとは何故か思わなかった。いつもなら、見つめていれば言いたいことを全部分かってくれる瞳が、今は夢の中だ。何の夢を見ているのだろう。ぼくの夢ならいいのに。「……」グリーンの代わり、返事を欲しがるぼくに答えたのはその胸元の石だった。彼の身動ぎに合わせて、ささやかな部屋の光を吸い込んで煌めく。(……きれい)旅人の多いこの世界には、絆を結ぶためのおまじないがいくつもある。大切な人と心まで離れてしまわないように。旅立つ我が子に贈るもの、任地に赴く家族へ送るもの、恋人や配偶者の無事と帰還を祈るもの。その多くは身に付けられるお守りやアクセサリーの形をしていた。(……似合う)シロガネ山を降りてもそばにいる約束ができなかったぼくは、地域によって形を変えるおまじないを見つけるたびに、手に取ってはやめて、眺めては目を逸らした。彼に似合うものが、見つからなかったからだ。ある火山へと続く道のりでのことだった。まだ木々の茂る森のエリアで、きらりとひかるものを見つけた。陰に置くと赤いのに、陽にかざすと緑に光る。進化の石かとも思って持ち込んだ店の店主の曰く、結晶化する間に二つの要素を持ったせいで、どちらにもならなかった珍しい石だという。ポケモンを進化させる力はないが、少し不思議な力―持ち主を守ったり、慰めたりするような―を持っているらしい。ヘタをすれば進化の石よりも高額で取引がされるというそれを、店主は欲しがったけれど、たった一人のことを考えていたぼくは、買取価格も聞かずに店を出た。値段くらいは聞いておいても良かったかな。手に入れた石を上手に加工してもらうために信用できる店に寄ったら、一月ほど遠回りをした。グリーンはぼくの遅刻を怒ったし、相変わらず高飛車な言葉を返したけれど、声は震えていたし、目尻は濡れていたし、頬も耳も赤かったし、ぼくの贈ったチャームを、ものすごく高価そうなチェーンに通して、信じられないくらい綺麗な顔をしたから、多分気に入ったんだと思う。「……起きて」頬に触れるとサラサラしている。陽に焼けたくないなんていって肌の手入れをちゃんとしているからだろうか。髪に触れるといい香りがする。多分ぼくからも同じ匂いがしている。「おきて」‶いつまでこうしていられるんだろうな〟なんて言って、グリーンはたまに、酷く不安そうにする。でも君を疑うことができないぼくは、その不安を解ってあげられない。いつだったか、それならせめてと証を欲しがる彼に応える形で、はじめて素肌に触れたのは。あの夜に感じた熱は、ほのおタイプの攻撃で火傷をしたときよりあつかった。心に残った火傷は美しい跡になって、多分一生消えない。「ね、おきて」離れているあいだ、どうしようもなく触れたい夜だってたくさんあった。そういうときは、君の内側に入り込んだ記憶さえあれば自分の掌だけで欲望は大人しくなった。でも、辛いのはその後だ。寂しさは欲望の何倍も強くぼくの足を重くした。グリーンをモンスターボールに入れて持ち運べたらいいのになんてことを考えながら、小さなボールでぼくを待って眠っているのを想像して、気分が悪くなるくらい悲しくなって、そんなひどいことはできないなんて真逆のことを考えた。だから多分、今、ぼくは幸せなんだと思う。「グリーン」「……うる、せぇ」知らないうちにぼくは、グリーンの、実はイーブイみたいにふわふわな頭を抱きこんでしまっていた。腕の中から聞こえた声はかすれていて、こういうのを〝セクシー〟って言うんだって、最近ようやく知った。「みみもとで、しゃべんな」そんなことを言いながら、離れていこうとはしない。それどころか、ぼくのむなもとの鎖骨のあたりに額をすりつけて、甘えるようにして。「……」こういう朝は珍しいのだ。バトルツリーでバトルがある日は競うように朝の支度をするし、今日みたいに休みの日は観光にショッピングにポケモン研究にと忙しい男だから。「……ね、起きよう」腕を腰に回して抱きよせると、嫌がるどころか膝で太ももを撫でてくる。調子にのって首筋の匂いを嗅ぐと、少し高めのボディソープにグリーンの匂いが混ざって甘い。思わずぺろと舐めるとびくん!と身体を震わせるから面白くってふふっと笑うと、首筋をがぶと噛まれた。「いてっ」「ばか、舐めるな」「……ねぇ、グリーン」ぼくはこのまま、シーツに浮かんでいてもいいんだけど、そうすると君は後悔するだろう?あれもできたのに、これもできたのに。「……ンだよ」おまえにあれを見せたかったのに、と。「行きたいところ、あるんでしょ?」昨日話してくれたよね。少し離れた場所に美味しいご飯の食べられるお店があって、そのそばに静かなビーチがある。夕暮れ時は海面が不思議なピンクに染まって、運が良ければ何かの群れに出会えるとか、なんとか。「……ちゃんと聞いてたんだな、オレの話」「……」ちょっと驚いた顔をするのは、少し失礼じゃないのかな。でもその後、嬉しいのを我慢して口元がもにゃもにゃしているのが可愛いから許してあげる。多分、ずっと隣にはいられない。それでも別れは選べない。この滞在が終わったら、次にいつ会えるかもわからない。でも絶対に僕らは出会う。世界はそうやって作られている。だからねぇ、今は。「ほら、グリーン」温もりを分け合いながら、眩しい日差しを浴びながら、「今日は、どうする?」からだじゅうで幸せを感じながら。「何がしたい?」これからの話をさせてよ。PR -
レグリ(んとさんへ)
プレイ中、バトル後去っていくライバルに対してどんなに十字キーを押しても追いかけていけないことに絶望して書いた記憶があります。
※SSリメイク時点で書いた
※レッドの一人称がぼく
※相棒がバクフーン
※ほんのりヒビライ
[chapter:昔話をしようか]
「これは、まだぼくが君だった時の話」
雪が降っている。冷たい風が吹く。意味の分からない前置きをして、彼は話を始めた。その足元のピカチュウは既に臨戦態勢で、こちら側にいるバクフーンとにらみ合っている。
ヒビキは返事の代わりに、ごくりと唾を飲みこんだ。
「君は、誰の意思でそこにいるか答えられる?」
シロガネ山の頂上には、自分たち以外には誰もいない。もう随分遠くなったふもとに、ポケモンセンターがあるのみだ。
雪が降っている。なのに、不思議だ。本来あるべき刺すような冷たさを感じることは、無い。
「ぼくはここに来るまで、何もわからなかった。ただ、何か得体の知れないものに操作されて、自分の意志がどこにあるかもわからないまま旅を続けていた」
バクフーンの背中の炎に、雪が落ちては融けて消えていく。それでも景色は白い。その先に青空があるなんて信じられないほどに、色のない世界だ。
「何のための旅かは分からなかった。何となく浮かぶ道筋をひたすら追い駆けていた」
よく喋る奴だ、と思った。その声からは、声を出すこと一つにさえ、喜んでいるような昂揚が感じられた。恍惚としているようにも思えた。何故だか嫌な気分になって黙って睨み付けるが、相手は怯む様子もなく淡々と話を続ける。
「そんなぼくの旅には欠かせない人物がいた。君もここにいるなら会ったろ、グリーン…」
名前を口にした一瞬、その喜びが頂点に至ったような表情を見た、気がした。しかしその顔はすぐに切なげなものに変わる。
「グリーンという名の、やたら挑発的な少年。いや、もう青年かも知れない」
たしかトキワのジムリーダーの、とヒビキはその姿を思い浮かべる。でもなぜ目の前の彼が、あの人を知っているのだろう。
その疑問を見透かしたかのように、彼は話を続ける。
「彼は……」
雪は止まない。静かな山頂に時折吹く風は雪を躍らせるだけで、山の景色は微動だにせず時を止めたようにそこに在り続けている。
「ぼくのライバル、だった……いや、今でもそうだ」
ライバル、という言葉に、浮かび上がる姿があるような気がして、でも、吹雪の向こうに霞んで見えない。
「きっと君にもいるんだろうね、ライバルと言うにはちょっと張り合いがなくて、積極的で鬱陶しくて」
話し続ける彼の選ぶ言葉は相手を馬鹿にしているようにさえ聞こえるのに、声は酷く切ない音をして、雪と雪の間に震えている。
「だけど無視できない、ライバル」
“ヒビキ!”
吹雪の音をかき分けて、赤い髪の生意気な少年の声が聞こえた。そういえば今頃どうしているのかと思う。竜の穴にいると聞いたのはいつのことだっただろう。
「ぼくはね、彼に届きたかった。バトルの力じゃない。ぼくも欲しかったんだ、自分の意志が」
声は依然として切なげに響いている。風が吹いている。雪が、舞う。目の前の少年は喋り続けるのに、自分はまるで耳しか持っていないみたいに、それを聞き続けることしかできなくて。
「レッド、レッドとぼくの名を呼んでは、負けるためのバトルを挑んで、それでも前に進む彼に届きたかった」
頭の中で、赤い髪の彼が自分の名前を呼ぶ。一方的に挑発的な言葉をまくしたてる。
俺は彼の名前を知っているけれど。
「名前を呼びたかった」
呼んだことは、あっただろうか。いつもその背中を見送ってはいなかったか。
「追いかけたかった」
追いかけたこと?あるわけがない。ただ、見送っていた、それだけが真実だった。彼に名前を呼ばれて、一方的な話を聞いて、背中を見送って。
「グリーンが目の前でぼくに笑いかけるのに、ぼくは動くことも話をすることも、笑いかけることすら」
そしてどうした?
「できなかったんだ」
何もしなかった。できなかった。
なら、それはどうして?
今、苦しげに歪んでいるのは目の前の彼の顔か、それとも自分の顔か。
わからない。何も。なぜこの足はいつも、いつまでも、何度呼ばれても、動かない、動けないままで。
「だから、ぼくはここにいた。誰もいないここで、ただの“レッド"になれる日を待った」
恐る恐るうかがった彼の表情はかたいままで、しかし、どちらかと言えば微笑みだった。
それはまるで、何かから、解放されたような。
「ぼくを倒してくれる誰かが、この世界に現れるのをずっと待っていたんだ」
自由を手に入れた、獣のような。
安らかに獰猛な目元は、この人が今までの誰より強いのだということをヒビキに教える。
レッドの足元で、ピカチュウの頬がピリッと小さな火花を散らす。
緊張がはしる。
「君が」
雪は降りつづける。まるで世界の初めから終わりまで景色を変えるつもりがないような静けさで、降る。
「新しい主人公?」
次第に力のこもる声を聞く。なぜか、何とも言えない、とても嫌な気持ちになった。自分が自分でないような、感覚。
錯覚?
「やっと、きてくれた」
レッドの声が喜色を含むと、ヒビキの心は反比例して酷く悲しく苛立つ。
どうして?
帽子のつばの影の下できらりと光ったレッドの瞳がついにこちらをとらえるとき、背筋が、ゾクリと粟立った。
(これでやっと、彼に触れられる)
その瞳から声ではない、その、彼のこころが確かに聞こえた。挑発的な目元、赤い色の少し長い髪、そう、シルバーの背中が、残酷に遠のいていくのを感じる。
風の音が聞こえてくる。今更、冷たさが肌を指す。緊迫した空気が、相手の本気を嫌という程伝えてくる。ここはまさしく、どんなジムより、誰が準備したフィールドより、バトルに相応しかった。
「とりあえず」
隣で、バクフーンが腰を落とす。レッドの足元のピカチュウが上体を伏せる。炎と電気がそれぞれにバチリと爆ぜるような音をたてた。
「バトルしようよ」
シロガネ山には、ただただ冷たく刺すような空気が満ちている。
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「ま、じか」自室のベッドに腰掛けたまま、一二三は思わず呟いた。誰もいない部屋だ。誰が聞くこともないその声が向けられたのは、スマホに表示されたメッセージアプリの画面である。“ごめん、明日無理になった”砕いて尖った氷を呑み込んでしまったみたいに、一瞬で心がひゅんと冷えるて、痛い。「まじか〜!」明日のためにがんばった。明日のためだけに今日明日明後日の三連休にしていた。そのための連勤もした。お気に入りの服にアイロンもかけた。朝食だってこれから、いつもよりちょっと豪勢にできるよう準備もするつもりだった。ぱたん、と背中をベッドに預けて、じっと眺める天井は、今にも涙で滲みそうである。本当、便利な世の中になったものだ。こんなメッセージアプリで、顔も見せずに謝罪なんて。ちょうど一二三がスマホをいじっていそうな時間に連絡をよこすのだってずるい。家事や掃除で忙しくしている時間に連絡をくれれば、速攻で既読をつけてしまうこともなかったのに。まるでご機嫌を伺うかのように、つい先日一二三の教えた無料スタンプのがポン、と送られてくる。情けない顔のクマがシュンとした顔でごめんね、と謝っているけど、じゃあ許してやろうという気分にはなかなかならない。「え〜、どうすっかなぁ」ごろん、と寝返りを打ちながら、キーボードをタップする。”マジか〜!でも仕事なら”まで打っては消して、”ひでぇ!俺っちめちゃ楽しみに”まで打ってはまた、消して。自分の気持ちを正しく伝える言葉が思いつかない。本当は、今すぐ電話して、できない約束なんかするなって、文字ではなく声で怒りたい。それで、そのままスマホの電源を消してしまいたい。なんだか自分ばっかり楽しみにしていたみたいで、アホらしくて、バカみたいで。(仕事と俺っち、どっちが大事なの?なんてね)でも、できない。したらきっと後悔する。(仕事頑張ってるどぽちんにひどいこと言っちゃった)なんて悩んで、スマホの電源はすぐに入れてしまうだろうし、連絡と帰宅を待って眠れなくなるのもわかっている。どうしてだろう、どうしていつもこうなるんだろう。もう期待はしないといくら言い聞かせていても、一緒にいられる時間が何時もより長いのだけで少し、浮かれてしまうのをやめられないままだ。何年経っても。「しょうが、ないなぁ」自分を慰めるように、出した声は思っていたより震えた。意地悪なのは独歩じゃなくて神様なんだって、そう思うしか、この夜を超えてはいけない。こんなとき素直に泣けたらいいのに。店に通う女の子たちみたいに自分の感情に素直に、自分のことだけみていて、なんて。「ま、いつものことだしね」泣き叫んですがりついて、でも、その後どうなるんだろう。困らせて、疲れさせて、鬱陶しい、面倒だって思われるくらいなら、自分がちょっと我慢すれば、明日も一緒にいられるし。結局一二三が選んだのは、独歩が送ってきたのと同じシリーズの、おつかれのスタンプと、りょ!の一言。多分これでいい。これなら独歩は変に気を使わずに、自己嫌悪もせずに済む。スマホの電源は消せないけれど、暗転させて、少し遠く、ローテーブルに置く。ベッドサイドに置いておくと、返信に気がついてしまうから。多分大丈夫、傷ついてない。傷ついてなんか。「っふ、」泣きながら眠るとまぶたが腫れて顔がダメになるけど、明日休みだから別にいい。早めに風呂を済ませておいて良かった、なんて無理やりなポジティブ。おかえり、も、いってらっしゃい、も、きっと笑顔では言えないなら、疲れたふりして眠ってしまおう。きっと明日の夕方ごろにはいつもみたいに笑えるから。「ばか、どっぽ、きらい」だからどうか、今だけは、嫌いでいさせて欲しかった。「……み、ひふみ」呼ぶ声が聞こえて、意識が持ち上がる。もう朝?と思いながら浮上する意識と一緒に上げようとした目蓋が重だるいので、昨夜のことをばんやりと思い出してしまった。うんざりした気分でスマホを手探りするといつもあるはずの場所にはなくて、そういやテーブルに置いたんだっけ、と思い出してまた凹んで。「おい、起きたのか?ひふみ、」寝返りを打って、うっすらと開けた目。瞳に映る人は本物だろうか?それとも幻?「……目、真っ赤じゃないか」「ど、っぽ?」一二三が独歩を叩き起こすことはあっても、その逆はなかなか珍しい。ベッドサイドに腰掛ける独歩のその首元には緩んだネクタイがぶら下がっていて、肩でジャケットの襟がよれている。「え、いま、なんじ?」「……1時」てっきり昼の、かと思ったひふみは、そんなに寝たのに疲れが取れていないのかとがっくりしてしまった。だってまだ、独歩に笑顔のおかえりは言えない。「おれっち、おきたほうが、いいの?」寝起きの掠れた声は低くて、自分でも聞き取りにくい。不機嫌な顔を見せたくなくてもそもそと布団に潜るのに、独歩にそれを邪魔されるから、布団で腕で覆って、顔を隠す。「いいじゃん、おれっちは、やすみだし」このままだと、きっとたくさん嫌なことを言ってしまう。その前に、ここからいなくなってほしい。「どっぽはおしごとあるでしょ」ちゃんとおかえりを言う支度くらい、ゆっくりさせてほしいのに。「すまんひふみ、今は深夜の1時だ」「はぁ?」うっかり大きめの声が出た。深夜一時になぜ起こすのだ。それも、人の部屋に勝手に入ってきて。些か腹が立って独歩を睨みつけるとき、ようやくそこで目があって、やっぱり少し悲しくなった。「……」無言で寝返りを打とうとしたのに、胸元に額を預けられて身動きが取れなくなった。「おまえが変に聞き分けいいときって」独歩の使うプチプラの整髪剤の香りはあまり好きではないのに、独歩の匂いと混ざると嗅ぎ慣れて嫌と思えないのが嫌だ。「無理してるだろ」でもまさか泣くとは思ってなかったよ。ため息と一緒にそんなことを言われると、浮腫んで乾いたまぶたの奥からまたこみ上げる熱がある。「なぁ一二三、俺だって、楽しみにしてたし」ジャケット着たままベッドに来るなと何度言ったらわかるのだろう。甘えるように抱きしめられるとき、独歩の疲れた匂いがした。「埋め合わせは、したい、と、思ってる」信じたらまたきっと傷つく。わかっているのに心は言うことを聞かずに期待して喜ぶ。すまない、と言いながら一二三の首元に鼻を寄せて息をする。匂いを嗅がれている気がして身を捩ると、抱きしめる腕の力が強くなった。「ね、どっぽ」まだ笑えない。目の腫れはそう簡単には引かない。「あと30分、待っててやっから」明日はきっととても寂しい。でも。「お風呂入ってきな、一緒に寝よ」もう、嫌いでは、いられなくなってしまった。(も、やだなぁ)独歩はむくと起き上がって部屋から出ていった。きっと髪もろくに乾かさず、15分程度で戻るだろうという一二三の予想は当たるけれど。この後、独歩が目蓋を冷やすための濡れタオルを持ってくることまでは思いつかないまま。(すき、だなぁ、)一二三はもういちど、静かに少しだけ、泣いた。
「ふぅ、」
一通り揃ったとりどりのおかずをダイニングテーブルに並べ終えて息をつくと、はかったように炊飯器が鳴る。
時計を見ると、もうすぐ18時。
(がんばれ独歩ちん)
会社の都合とはいえ、前々からの約束を反故にしたことは、独歩なりに反省しているようで、昨晩は一二三の髪をいじいじといじりながら色々なご機嫌とりを提示してきた。できるだけ早く帰る。夕飯は簡単でいい。帰りに一二三の好きなパティスリーで秋限定のスイーツを全部買ってくる、などなど。予定していた日帰り温泉旅行は、出来るだけ今年中に行くこと。せっかくだから紅葉の時期に一泊しようと話をつけて、今日の夜には予約を済ませる予定だ。もちろんキャンセル料は独歩持ち。
(たまにはペナルティも欲しいっしょ)
夕飯は簡単でいいと言われたのでちゃんこ鍋にした。といっても、時間があるからと調子に乗って細々としたおかずを作りすぎてしまったが。朝食にする予定だった銀鮭を刻んで鍋にぶち込んだのは嫌がらせのつもりだったが、きっと独歩はうまいと言って食べるのだろう。
「へへ」
思わず笑みが漏れて安堵する。
やっぱり自分は独歩が好きで。ガチャ
「あ!」
6時のニュースです、というアナウンスが流れるテレビに背を向けて、一二三は玄関へと駆け出す。早く顔が見たい。 約束を反故にしたお詫びに、一二三から提示した条件はひとつ。
「たっ、……ただいま」
必ず独歩から、ただいまを言うこと。
約束は果たされた。多分自分は今きっと、いつもの何倍かの笑みを浮かべているだろう。
その手にはいつもよりひと回り大きなケーキの箱。
きっと楽しい夜になる。
「独歩ちん、おかえり!」
だってこんなにも、嬉しいから。
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ぐちゃぐちゃになりたい夜は、何も持たずにアトリエを出る。適当に汚れたオーバーサイズのパーカーはフードまでかぶって、金目のものは持たず、誰とも目わせず、大袈裟に人を避けながら早足で歩けば、わざと治安の悪い道を選んだって怖いことなんてない。それでも声をかけてくるのなんて汚くて臆病な酔っ払いのおっさんくらいだから、沢山ある交番の場所さえ把握しておけば犯罪抑止のボランティアまでできてしまうのだ。
「ボクってエラ〜い!」
ぐちゃぐちゃになりたい夜は、シブヤからシンジュクまで歩く。
決してこの身を許さない男の匂いを探す。
リーサルドーズオブヘイト
「ふぅ、」
(シンジュクってどっからどこまで?)
しばらく歩いて見上げるビル群にはまさしく、摩天楼という言葉がよく似合う。夜の照明は煌びやかに、神をも恐れぬ風情で堂々と立ち並ぶ。忌々しいという感情しか湧かない、でもそれでいい。これが欲しかったのだから。
人の減った夜の交差点に浮き上がる、横断歩道の白い部分だけ踏んで歩いてみる。けれど、同じように遊んだいつかの夜のワクワクした気分は、もう戻ってはこなかった。悲しい夜を重ねたつま先は重く、白線からはみ出しただけで泣き出しそうだった。
楽しかったこと、嬉しかったこと全部を、綺麗な色の嘘にする憎悪の眼差し。あれを知ってから、楽しいはずの気分が褪せていく速度が速い。
(寂雷はきっとボクのこと、壊れないおもちゃだと思ってたよね)
ビルの航空障害灯は赤く明滅して乱数を威嚇する。
(でもさぁ、強い力で手首を握られても、腰を掴まれても、泣かなかったのは、別に)
二人で幸せになる方法だけは、最後までわからなかった。
(平気だったから、ってわけじゃ、無いんだけど)
だからせめて、せめて不幸にならないように、孤独を奪い合うみたいにぶつけた肌の熱さを。
(ボクが泣いたらお前はきっと、触ってくれなかったし?)
失ってからこっち、ずっとなんだか、背中が寒い。
思いやりなんてどこにもなくて、ぶつかるみたいにふれあった。痛みしかない夜は空に投げても星にはなってくれず、重力に従って墜落するせいで心はボコボコだ。
(どうせ酷くするならいっそ、壊してくれたらよかったのにさぁ)
月の裏側みたいに。
(ボクはコワレモノなんだって、知らしめてやればよかったなぁ)
シンジュクの街は警告する。番犬のように牙をむく。これ以上足を踏み入れるなと。
「でもそうすると、アイツの後悔したカオ見れないねぇ」
飴は舐めるものだと何度言っても聞かなかった男は、今夜もこの街のどこかで優しい顔をしているに違いない。そう思うと、腹の底がうずく。
心も体も作り物なら、こんな気持ちになりたくなかった。綺麗なもの、かわいいもの、いい匂いのもの、甘いもの、幸せしか感じられないように作ってくれればよかったのに。そうすれば、あの腕と長い髪の檻の思い出だけで、なんの屈託もなく、笑っていられたのに。
「あ〜あ!つまんなくなっちゃった!」
突然上がった大きな声は深夜の街に響き、数少ない通行人がチラチラと視線をよこす。そのうちの1人はひどく酔っ払った女性で、「わかる〜!それな〜!」と言いながら乱数のそばへ寄ってきた。
「オネーさんもつまんないの?」「そそ!も〜酒飲むしかすることねぇ!」「あは!大変そー!」
誰とも知らない人間に、適当な相槌を打って遊ぶのは嫌いじゃないから。
「……飴村くん?」
それを邪魔するヤツは嫌い、で、良いのだ、多分。
低い声が鼓膜に染み付いているせいで、見なくても誰か分かってしまう。
どうしてこんな簡単に、見つかってしまうのか、この男にはきっと死ぬまでわからないんだろうと思う。
その足の選ぶ道を、頭よりも、身体よりも、心が覚えている。
振り向こうとするとき、自分のまぶたに、頬に、唇に願う。
できるだけ、でいいから、どうか上手に笑ってくれと。
「こんな時間に何をしているんです」
「うるさ〜い!ジジイは寝る時間じゃないのぉ?」
酔っ払いの女性は、缶チューハイを片手にもう何処かへ行ってしまった。
風の吹かない新宿の街中にあって、長い髪は針金のように真っ直ぐだった。ただ、その長い脚が動くのに合わせて、微かにさらりと揺れてみせる。
「みだりに此処の治安を乱さないでもらえるかな」
忌々しさを隠さない表情を見るたびに思う。きっとこの男にこんな顔をさせるのは自分だけだと。
(なんでそんな顔するのさ)
腹立たしくて、悲しくて、苦しくて、誇らしくて、嬉しくて。
(もう僕のことなんてどうでもいいくせに)
そして少しだけ切ない。
(わっかんね〜)
「自分のディビジョンに帰りなさい」
諭すような言葉の、声色は優しくなんてない。細められた眼差しは透き通って冷たいのに、完全燃焼の静かな炎の色だ。
「やぁだよ!ばーか!」
膨らんだ憎しみを同じ大きさで打ち返すのは疲れるんだって、わかってるのかな?わかってないよな。
「ハァ」
ため息の音は嫌いだ。逃げるのは幸せじゃない、自由だ。ぱし、と掴まれた部分から血が沸いて、全身が。
(あつい)
「……なぁに?相手してくれるの?」
「……とりあえずこっちにきなさい」
ぐちゃぐちゃになりたい夜は、シブヤから、シンジュクまで歩く。
今日で全てが終わればいい、だなんて、思ってもいない願いと手を繋いで、くるくると踊りながら。
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なりかけの秋が嫌いなのは、決まって同じ夢を見るからだ
夢喰い
悪夢はいつも、ギチリと締め付けられた腕の痛みから始まる。歯を食いしばりながら何度か瞼に力を込めてこじ開けるように開いた双眸にまず映るのは、汚いござに膝まづく、情けない自分の両膝だ。
「……は、」
息を吐くと、締め付けられているのが腕だけではないことに気が付く。胸元を見下ろすと、何重かになった縄が食い込んでいた。顔を上げなくてもわかる。ここは〝あの日〟の門の下だ。行き過ぎる知った顔をひとつずつ見送るうちに不思議と心は凪いで、こんな醜いこの世に未練などないと、心の底からそう思うまでの儀式の半ば。
自分が拘束されていること、そしてその理由に思い当って、今度は肺が膨らんで縄を押さないようにふ、と小さく息を吐いた。
この後何が起こるのか、自分は多分知っている。多分、というのは、いつだってこの悪夢は、通り過ぎてからああそうだったそうだった、と答え合わせのように時間が過ぎていくからだ。
そう、これは本当は夢などではない。遠いいつかの記憶なのだ。
ざり
履物が土を強く踏む、怒りに満ちた足音がする。すると無意識に身体がよじれて、逃げることなどとうの昔に諦めているはずなのに。居心地悪くてもそもそと動くと、ぎち、と尚も食い込む縄の、ささくれが肌に刺さって痛い。
ジリ、とひとつ音がして、止まる足音。視線の先に現れるのは、見慣れた、そしてひどく懐かしい爪先がふたつ。
(……くる)
何かを、覚悟した。きっと今から自分は、罵詈雑言を浴びるのだ。それを追いかけて、唾棄する仕草、軽蔑の眼差しがこの身を射るのだろう。
無抵抗に襟ぐりを掴まれ、首を、頭を揺さぶられ、酷く罵られる。自分はそれに酷く精神を摩耗させられて、それなのに、少しだけ、ほんの少しだけ、この生命を散らすのが、酷く惜しく思えてくる。要するに未練だ。捨てかけた未練が甦るようなことを言われて頭にくる。
そんな、これ以上ない不愉快が来ると、覚悟していた。
(……)
しかし、どうしてだろう。いつまで待っても、脳裏に翻ったのと同じ声や言葉や視線が降ってくることはなかった。代わり、膝のすぐそばに、何か雫が落ちてきた。
ぱた
雨など降ってはいないはずなのに、ちょうど目線の先に小さな染みができるさまを眺めた。一体、何がと思って顔をあげるとき、何の予想もしてはいなくて。
(……は)
あるはずだった鋭い眼差しと、軽蔑するために歪んだ眉のかわり。
(どうして)
無駄にぎょろりと大きな両目から、ぱたぱたと何かが流れでいた。
(お前が泣くんだ)
「ごめん」
声が聞こえた瞬間、その面立ちが酷く幼く形を変えた。流石夢、変幻自在の光景のなかで、彼はだいたい、齢十八といったところか。はらはらと、それはらしくもなく涙を零してそれを止めようともしない。まるで堰が壊れた川、留めるものを失くした水が暴れて溢れるような、豪快な涙だった。
「ごめんな」
こころのどこかが〝今更〟と言った。しかしそれは声にはならなかった。
伸ばされた両腕は、掴むはずの襟元を通り過ぎた。まだ少し、ほんの少しだけ柔らかさを残したしなやかな両腕が首に絡むと、自然、視界がふさがれた。
獣のような匂いはしなくて、花のような、やたらと甘い匂いがするのが不思議だ。
知らぬうちに、胸と腕を圧す縄の拘束がなくなっていたのに気が付いたのは、自分の腕がその未だ頼りない背中に、勝手に伸びていったから。
夢のくせに、その身体は酷く熱くてじっとりとした。
吐息が耳に触れた。
「ごめんな、」
聞こえた声は、小さかった。
「――――――――――――――」
(……全くだ)
瞬間、景色が崩れた。足場も失って、ただ暗闇に落ちていく。ただ、その間もまだ育ち切らない腕は自分の頭を抱きこんで離さなかったし、その背に回った己が腕も、それを放そうとはせずに。
(……これで、終わりか)
ただ、二人で落ちていくのを、何の恐れもなく受け入れていた。
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柔らかい日差しに瞼を撫でられたのを感じて、促されるようにゆっくりと瞼を上げる。ぼんやりとした視界から蘇ってくるのは、今生の感覚だ。
一人暮らし用の賃貸物件。一人用の寝床が狭く感じられるのは、そこに一人ではないからだ。
(……あぁ)
昨晩は遅くまで酒を飲んでいたのだった。一人で酔っぱらったのを放って布団に入ったことをしっかりと覚えているし、身体に酒も残っていない。床で寝ておけと言ったのに、こいつはいつも他人の布団に潜りこんでは寝息を立てる。
(まさかな)
前世が夢か、それともこの今生が夢なのだろうかと、未だに頬をつねってみたりすることがる。一度は命のやり取りをした相手の横で、こんな風に寝こけるやつがいるか、と。
(平和だ)
二度目の人生の自覚をしたときから、もう、出会わないと思っていた。出会うものかと思っていた。忘れたつもりでいた。でも出会ってしまった。忘れることなど、出来なかった。
「いちまつ」
呼べば、懐かしさで気が触れそうになる。
なぜあんな夢を、と思う前に、なるほど道理でと一人合点した。
日差しは温もりを残して、しかし吹く風は次第に冷えていく。
今生で、初めて二人で過ごす秋だ。
〝さきち〟
もう誰も呼ばぬ名でよばれたそのとき、振り向かなければ良かったか。しかし、それでも足は止まったし、首は勝手に動き、声のした方へ振り向き仰いだ。
〝さきち〟
目と目が合った瞬間に後悔をしたのはきっと、そのときはっしと、今再びの縁が結ばれてしまったことを心のどこかが理解したから。
まだ幼さを残した瞳を潤ませて駆け寄るその身体を、伸ばされる腕を、知らないふりで拒めばよかったかと何度思っても、もう出会う前には戻れないのだ。
〝――――――――――――――〟
泣きながら縋る彼はあの日、今見た夢と同じに何度も謝罪の言葉をくりかえして、そして同じことを言った。耳元でささやかれた言葉に、返事をしなかったこと、少し心にとどまっているから、あんな夢を見たんだろうか。
「……今度は」
今生でもまたいつか裏切るのだろうか、そして裏切られるのだろうか。今度こそ分かり会えるのだろうか。それともまた、寄り添うことは叶わないのか。
それはわからない、けれど。
「今度はちゃんと、殺せよ、俺を」
せめて最後は、終わりだけはと、願ってしまうのは、弱さだろうか。
「ん、ん~」
何の夢を見るのだろうか、もごもごと口元を歪ませる。今度はお前が、悪い夢でも見ているといい。
なりたての秋の、いつかの悪夢も。
「起きろ市松」
きっとお前なら、食いちぎり、飲み干せるのだろうから。
〝ごめんな、ちゃんと殺してやれなくて〟