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「今年も綺麗に咲いたようだな」
話し合いの合間、茶をすすりながら三成がそういうのに、行長も庭先に顔を向けた。梅雨の合間の晴れた空の下、小さな青い花が円くあつまって、あちこちで力いっぱいみずみずしく咲き誇っている。
返事をするよりも、その花の名前を思い出すよりも先に、行長の脳裏を過ぎ去るものがあった。
「あぁ」
自分にも聞こえるかどうかという声で、惰性で返事をしながら、行長はずっと昔のことのように思えるある日を思い出すのをとめられなかった。
あめのなかまあるくあおくあじさいの(さくなかひとつ きみをみつける)
ぽつぽつと行長の肩を雨粒が打つ。髪も顔もすべてびしょ濡れにして、一人俯いていた。
(ッ、くそ)
少しばかり、失敗をした。誰にも咎められはしなかったし、実害も出ていない。普段ならやり過ごせるはずなのに今回はどうにも振り切れなくて、頭を冷やそうと外に出たら突然の雨にやられた。
(疲れた)
新しい環境に、疲れていた。自分以外は幼い時からここに出入りしているものばかりで、その慣れを見せつけるようにてきぱきと動く。
秀吉直下で働くという出世は、喜びとともに責任も今までの比ではない。それが重たいわけではないが、あまりに自分は部外者過ぎた。
(どないしよ)
新参者の失敗は周囲の侮りにも繋がるだろう。このままでは駄目だ、駄目だと焦って自分を追い込みすぎて、このざまだ。
目の前には青い小花がまるく、まるく寄り添って、仲良さげに生き生きと雨を浴びている。それが行長の疎外感を一層強くした。
軌道修正を急がねばならない。それなのに、なかなか冷静になれないで、頭を冷やしに外に出たらこのざまだ。
(ちょうどよかったやん)
瑞々しい紫陽花にそっと触れれば、その色もあいまって予想以上に冷たく感じる。お前まで冷たくするのかと、まるで棘にでも触れたかのように思わずその手をひっこめた。
雨水を飲みこむように上を見上げると雨粒が顔にぼつぼつとあたって目は開けていられない。頭より先に心が冷えていく気持ちがする。
(しんどいなぁ)
このままずっと雨を浴びていたらどうなるだろうかと、衣服が濡れて肌に張り付くのを感じていたその時だ。
「何をしている」
最近ようやく聴きなれた声だ。加藤清正、自分を睨み付けるその眼差しは、もう目を開けなくてもわかるほどに感じてきたけれど。
「…悪いけど、かまわんといてや」
今は彼の相手などしていられない。年下の相手には慣れているけれど、自分を疎む人間をあしらう体力は今の行長にはなかった。
「…いつまでそこにいる気だ」
口ぶりから、随分前から気が付いていたのだろう。ばつが悪くて、上を向いていた顔を下に向ける。
「ここじゃなければ、ええんやな」
そう言って彼に背を向ける。もうここにはいたくない、それだけだった。なのに。
「待て」
制止の声など聞くつもりはなかった。しかしその声は予想以上に強くて、思わず足をとめて振り返る。
目があった瞬間、相手の眉間にしわが寄るのを見つけて、そんなに嫌ならかまうなや、と内心でため息をついた。
「なんや」
やっとの思いで返事をすれば、ざくざく、とこちらに歩み寄ってくる。よく見れば傘も持たずに、相手ももう随分濡れていた。
人一人分ほどの距離で向かい合う。何のつもりだと行長は思う。どうせろくなことがないのに、なぜ自分はこいつと向き合っているのだろうか。
(嫌味でもなんでも、寄越すならはよしてや)
早く相手の気が済めばいいと、その動向をただ眺めていると、清正は傍らの紫陽花から花を一つプチリと摘んだ。
(…僕みたいや)
そのゆったりとした動作を目で追ってそう思った。まあるく寄り添った中で、一つ離れた小さな花。
(嫌やな、)
雨のせいで心なしかぼんやりする視界のなかで、清正の手の中の青が浮き上がるように行長の目を射る。
だからその青が、清正の手が、自分に近づいてくるのに気が付くのが、遅れた。
す、と自分の頭の、結い上げた部分に何かが挟まる感覚があったかと思うと、清正の手が離れていくのが見える。
「な、ん」
「女のようだな」
何をしたかは想像に難くない。何がしたいんだと頭に触れてそれを確認しようとする行長に、侮るような声が降ってきて、思わずそちらを睨み付ければ、その眼は予想外にも笑っていなかった。
まっすぐにこちらを射ぬいている。二人の間に雨なんか降っていないのではないかと思うくらい、その眼はしっかりと行長を見つめている。
背筋にゾクゾクと何かが這い上がる感覚がした。目がそらせない。そのまま見つめ合っていたら気迫に押されそうで、負けじと行長も目に力をこめた。
すると、清正の目の色が少しだけ変わった。年下とは思えぬ不遜なまなざし。それがお前のするべき顔だと満足した様な、目の奥が笑っているような、眼差し。
(クソ生意気)
何でそんなに機嫌がいいのだ、他人の失敗がそんなに心地よいかとその眼の奥を探るように睨む。
「あぁ」
そんな行長にまた降ってくる、感心した様な声が行長をさらに苛々させる。こんな男に見下されて、悔しくないのかと湧き上がる何かがある。
「その顔なら、頭に花をつけていても男に見えるぞ」
「ッ貴様、」
しかし、口から出かけた罵り言葉は、そう言って一度目を閉じた清正の目が再び行長を射ぬくとき、どこかに失くしてしまった。
行長はその奥にあるものを見つけてしまった。
(僕を、みとるのか)
その瞳の中にあるのは、愉悦でも侮蔑でもなく、自分だった。ただ清正は自分を見ている。行長の逃げも、落胆も、自己否定さえ、許さないとでもいうように。
(僕は、そこにいたんか)
〝このままじゃ、おわれへんで〟
その強い眼差しの奥に見つけた自分がにやりと笑った気がした。
「弥九郎?」
声をかけられてはっとした。目の前に広がる青色に、連れていかれていた思考がふわりと戻ってくる。
どうかしたかと問う声に、なんでも、と答えるけれども、きっと彼には気付かれているだろう。
「これから、忙しくなる」
「あぁ」
すする茶はもう冷めている。もう一度見つめた紫陽花の青色の先にいる男と、分かり合えぬまま、自分はきっと死ぬのだろうと、思う。
(でも)
あの、彼の瞳の中にいた自分は、死なないような、そんな気がする。その時の行長はそっと微笑んだのだけれど、見ていたのは、まあるく集まる紫陽花たちだけだった。PR -
足元に転がるかんざしは、又兵衛の大切にしていたものだった。家を出るとき母から預かったそれは、しっかりとしまってあったはずだ。
手に取れば、すぐそばでうずくまっていた松寿丸の肩がびくりと跳ねる。
「…」
無言で眺めたかんざしは、漆塗りの細い棒の先に赤い玉のついたシンプルなものだ。使用感のない滑らかな黒が、玉の先の先端でパキリと欠けていた。
「…若」
思っていたより低い声が出た。先ほどと同じように小さな肩が目の端でふるえている。
床に残る欠片を拾うときにちらりと見たとき、松寿丸は今にも泣きだしそうな青い顔をしていた。
「またべ」
震えた声が耳に届いても、心の中にともった怒りが収まる気配はない。
「すまなかった」
か弱い声が静かな部屋に響く。絞り出すようなその声から、反省していることは分かった。これはとても珍しいことだ。若が自分から謝るなんて。
「壊すつもりはなかったのだ、ほんとうに、」
しかしそれは、許す理由にするには足りなかった。
「出て行ってください」
言い募る松寿丸の声を遮って、又兵衛は静かに言った。
「またべ、」
「この部屋から、出て行ってください」
そうでないと、きっとひどいことを言ってしまう。反省している相手に、自分よりも随分幼い彼に言っても仕方のないことを、確実に傷つける言葉を、吐き出してしまう。
拳を握る手に力がこもる。うつむいているから、松寿丸の顔はうかがえない。しばらくして、布のこすれる音がして、障子が空いて、閉まる音がした。
その瞬間、ふう、と息をついた又兵衛はすとんと床に膝をついた。握りしめていた拳を開いて手のひらを見れば、案の定爪の跡が残っていた。
「ックソ」
爪痕の残る手のひらには、先の欠けたかんざし。元の形を失って、無様だ。
もう嫌だ、と又兵衛は思った。今年十四になった彼は、六つの子どもに振り回されるのに疲れていた。
彼が生まれたころからずっと一緒に、それこそ兄弟のように育った。自分を息子のように可愛がってくれる君主の息子だから、自分も大切にせねばならないことは分かっているし、大切にしている、つもりだ。
(いつまで続くのか、一生か)
しかし、兄弟のように育ったとはいえ、立場が違いすぎる。松寿丸は跡継ぎ、自分は家臣。
又兵衛もまだ育ちざかりの男児である。松寿丸の行動に苛立つことも、邪魔に思うことも、汚い言葉で叱り飛ばしたい時もある。
昨日だって、どこかから持ってきた木の枝を振り回して、取り上げるのに随分苦労した。その前は、又兵衛が書を読んでいるというのに遊べとうるさく騒ぎ、一緒に城下町に出た時には金平糖が欲しいと駄々をこねた。
全部、我慢してきた。自分のやりたいことを邪魔されても、子供特有のわがままで困らされても、鬱陶しいと思うことすら、自分に禁じていた。
(兄弟じゃ、ないから)
それももう限界だと、割れた簪を眺めて思う。頭に上った血はもう下がったが、疲れが両肩にどすん、とのっているような感覚がある。
(そういえば、今日は朝から調子が悪かった)
ふらふらする体を横たえる又兵衛の脳裏に浮かんだのはそれでも、顔を青くして泣くのを耐える松寿丸の顔で、胸の奥がずきりと痛む気がした。
(またべえ、怒ってた)
又兵衛に追い返された後、松寿丸は縁側に腰掛けて一人で庭を眺めていた。出て行けといった又兵衛のを思い出す。普段とは違う冷たい態度に、いつもの強気もなりを潜めた。
(もっと怒られるかと思った)
又兵衛があのかんざしを大切にしているのは松寿丸も知っていた。つい最近これは何だと騒ぐ松寿丸に、ため息とともに教えてくれた。それが、母親からもらったものだということも。
忘れられなかったのは、そのかんざしを見つめる又兵衛のことだ。
とても優しくて、少し悲しそうな顔をした。これは私が母からもらったものです、そう言っていた。その時寂しいようないらいらするような気持ちがして、あまり良くない返事をしたのを覚えている。
(またべえは、兄ではない)
幼い松寿丸も、それは理解していたけれど、それが気になったことなんてなかった。あのかんざしを知るまでは。
又兵衛には、本当の両親と本当の兄弟がいる。それを懐かしいと思う気持ちがある。もしかしたらここにいるより、本当の家族と一緒にいたいのかもしれない。そういえば最近、ちょっと冷たいような気もする。
幼い身には余るようないろいろな気持ちは、悔しさや寂しさに変わって、かんざしの印象を悪くした。
だから、あのかんざしを又兵衛から取り上げてしまおうかと思った。寄越せと強請りに行こうと思って訪ねたら、又兵衛は部屋にいなかった。
勝手にかんざしを出す時はドキドキしたけれど、壊すつもりなんてなかった。手に取って立ち上がった時、袴を踏んで転んでしまった。かんざしは体の下敷きになって、欠けてしまった。
又兵衛が戻ってきたのはそのすぐ後だった。どうしたらいいのかわからなくて、うずくまることしかできなかった。
出ていけ、と言われたとき、その声の冷たさに、こらえた涙が溢れそうになった。
(まだ怒ってるかな)
多分怒っているだろう。ならば自分のしなければいけないことは分かっている。
(もう一回ちゃんとあやまらなければ)
松寿丸は唇をきゅ、と結ぶと、すっと立ち上がった。
しかし、意を決して向かった又兵衛の部屋には、侍女たちがせわしなく出入りしており、近づくのが少し憚られた。
(何かあったのか)
少し離れたところから様子をうかがうと、侍女の一人がこちらに気が付いて駆け寄ってきた。
「松寿丸様!」
侍女はいかにもホッとした、という表情で、小さな松寿丸の両肩をさする。
「具合が悪いところはございませぬか」
「だいじょうぶだ」
この様子だと、又兵衛に何かあったのは違いなかった。不安が胸を締め付ける。
「又兵衛に何かあったのか?」
「それが先ほどお部屋で具合が悪そうにしているのが見つかりまして」
体がお熱くて、今寝床と薬を整えているところでございます、そういう侍女の言葉に、足は自然と又兵衛の部屋へと向くのだが。
「松寿丸様、お見舞いは後になさいませ」
そういって手を引いて、松寿丸を台所に連れていく。
「一緒に瓜を切りましょうね」
やさしい侍女の声は右から左へ通り抜けていく。
(またべえが、病気?)
自分が悪い子だったから、神様は自分から又兵衛を取り上げようとしているのじゃないか。
幼い松寿丸の心にはいっぱいの不安が広がるばかりだった。
///////////////
目覚める間際の、ぼんやりとした意識の中で、子供の泣く声がする。
(…若?)
鼻をすする合間に、震える声がする。
「すまない、すまない、またべぇ」
泣くな、と頭を撫でてやりたいのに、体も瞼も腕も重くて何一つ動かせない。
「いい子にするから」
その言葉に心のどこかが冷える気がした。泣かせているのは誰だ。
「またべえ、いなくなるな」
その声が耳に届いた瞬間、ぱちり、と目が開いた。
「ッ、若!?」
しかし、傍らにいるはずの松寿丸の姿はなく、夢だったかとため息をつく。
起き上がりながら、自分はどれほど眠っていたのだろうと思いをめぐらす。よく見れば寝床も整えられているし、着物も替えてある。そういえば横になった後で侍女がやってきて、何か騒ぎながら世話をしてくれたような記憶もある。
(体調を崩すとは…)
情けないなと自嘲する。体のだるさはあるので、まだ熱も引いていないだろう。そのうち誰かが来るだろうから、それまで横になっていた方がよさそうだ。そうおもってもう一度体を横たえるとき、枕元に何かがあるのに気が付く。
「花?」
そこには、紐でくくられた薄紫の花が数本、そっと置かれていた。
考えるまでもなく、こんなことをするのは。
「若、」
ということは、あれは夢ではなかったのだろうか。
胸に痛みを感じながら、紫色の小さな花弁を撫でれば、摘みたての草の青いにおいがした。
「若、」
心にあった怒りが次第にしぼんでいく。自分のために慣れもしない花摘みをする姿が容易に思い浮かぶくらいには、もうずっと、そばにいたのだ。
なぜあのかんざしを出してきて、なぜああなったのか、しっかり聞いてやらねばなるまい。返事次第では、しっかり叱ってやらねばならない。それが自分の務めだと、改めに心に刻まれた気がする。
またきっと見舞いに来てくれるだろうから、その時は頭を撫でて礼を言おうと、又兵衛が口元に笑みを浮かべた、その時だ。
「何だ?」
俄かに外が騒がしくなる、バタバタと人の駆ける音、焦ったような声も聞こえる。何事かと自室から顔を出せば、そこには血相を変えた母里がいた。
「どうさかされました」
「おぉ又兵衛、よくなったか」
そう声はかけるものの、そんな世間話をしているような場合ではないようで、話している時間も惜しいとばかりに、母里は続ける。
「実は若がな」
その言葉に背中が冷えるのがわかる。
「どこにもおらぬのだ」
屋敷中探しているのだが見つからん、調子がよくなったら手伝ってくれといって母里は去って行った。
原因はきっと自分にあるのだろうと、疑うことなくそう思った。それならばじゃぁ、松寿丸が向かいそうなところは。
机上に置いたままのかんざしが目に入る。脳裏に閃いた場所へと、着替えもそこそこに部屋から躍り出た。
目指すは城下、体の重みなど無視して走る。はやく抱きしめてやらなければと、足がもげるほどの勢いで走った。
///////////////
(どこだ、ここは)
人ばかりの城下町で、松寿丸は一人、立ち尽くしていた。
絶え間なく人が行きかう通りは騒がしく、松寿丸の大きさではどこに何があるかも見分けるのは難しい。
賑やかな街並みは溶け込めない松寿丸をもっと一人ぼっちにするようで、寂しさが募る。
探しても、探しても、目当てのものは見つからなかった。かんざしを治すための膠(にかわ)を探しに降りてきたのだが、どこで売っているのか、何屋にあるのかもわからないまま、きょろきょろと探し回っていたら道に迷ってしまったのだ。
立ち止まった場所のすぐそばには、以前又兵衛と見た店があった。あの時は店先の金平糖が欲しくて、又兵衛を困らせた。
「兄ちゃん兄ちゃん、コンペイトーだよ」
「ばか、そんなもの買う銭はねぇよ」
「けち!あはは!」
そんな長政の耳に、そんな会話が入ってくる。どうやら兄弟が、店の前を通り過ぎて行ったようだ。
目で声を追うと、自分と同じくらいの弟が、又兵衛よりもすこし小さいくらいの兄に手を引かれて歩いていくのが見えた。金平糖なんかなくても、随分幸せそうに見えた。
(あのとき又兵衛は何て言った)
何と言ったかは思い出せなかったけれど、随分困らせたのは覚えている。改めて店先の金平糖を見ても、全く欲しいとは思えなかった。
又兵衛が本当の兄だったら、さっきの弟のように、楽しい気持ちのままで金平糖を通り過ぎることができたのだろうか。その考えにぶんぶんと首を横に振る。
(またべえ)
もう足も疲れてしまった。夕暮れも近い。不安で押しつぶされそうで、思わずしゃがみこんだ。銭の代わりに持ってきたお気に入りの玩具も、松寿丸の手の中で情けなく無言を貫いている。こんなことになるなら、誰にも言わずに一人で出てくるんじゃなかった。こらえていた涙が溢れそうになった、その時だ
「若っ」
声のした方から、必死に走ってくる姿がある。涙でにじんで良く見えないけれど、あれは絶対に。
「またべっ」
認めた瞬間駆けだしていた。まだ広くない胸の中に飛び込めば、いつもそばにあった体温がぎゅっと自分を包んでくれる。
「帰りますよ」
「おう」
又兵衛は、帰り道ずっと松寿丸の手を握っていた。それがとても、嬉しかった。
戻った二人は官兵衛にお説教を受けた後、そろって又兵衛の部屋に向かった。ぶすっとした顔をしながら、松寿丸が離れないのだ。仕方がないので久しぶりに一緒に寝るかと提案すれば、一瞬至極嬉しそうな顔をして、慌てて表情を戻して頷くのでつられて笑ってしまった。
二人仲良く寝床に収まると、松寿丸は体を丸くして又兵衛の胸元に収まった。
「またべえ」
「はい」
「…わるかった」
何についての謝罪かは、分かっている。ずっとしかめっ面をしていたのは、謝るタイミングを彼なりにはかっていたのだとわかり、眉尻を下げた。怒っていないのを伝えるために、そっと尋ねる。
「なんでかんざしが折れたんですか」
「…またべえが、かんざしにとられるかとおもって」
弱弱しくそうつぶやく松寿丸は、丸くしていた体をさらに丸くしてそういった。その姿がらしくなくいじらしくて、思わずぎゅっと抱きしめる。
「すまなかった」
もういちど謝罪するその頭をそっと撫でて、しょうがないから許します、とそう呟けば、安心したように息をつく。頭を撫でてやっていたら、しばらくして寝息が聞こえ始めた。
(守らなければ)
いつか彼が自分を必要としなくなる日まで。その時までは。
腕の中のぬくもりを感じながら後を追うように眠りにつくとき、あの、先の欠けたかんざしはこの小さな主君に預けようと、それだけ決めた。
///////////////
(ん、う)
目が覚めると、あるはずのぬくもりがなくて、自分が夢を見ていたことに気が付く。
(随分懐かしい夢だったな)
寂しさを感じる自分がおかしくて、少し笑った。
「目が覚めたか」
余韻に浸っているとどこかからそう声がかかってはっとする。
「いたのか」
「悪いか」
そこにいたのは、明石全登で、呆けた顔の又兵衛を睨み付けた。
「気味の悪い笑い方をして、どんな夢を見ていたのだか」
寝ている時間があれば働けとでも言いたげな様子である。
「懐かしい夢だよ。昔の話だ」
その言葉に何かを察したのか、明石はもう何も言わなかった。
思い出すのは、あのかんざしだ。あの後長政にくれてやった母のかんざしは、今はどこにあるのだろうか。差し出して、持っていてくださいと言った時の驚いた顔は確かに、覚えているのだけれど。
(まだ、もってんのか)
そのかんざしが今長政の髪を飾ることを、もう忘れてるかもしれねぇなと苦笑いを漏らす又兵衛が、知ることは、ない。
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(現代転生/人外)
もう一度であったとして
僕らはどうなることができるの
頭の上で目覚まし時計が騒いでいるのに、加藤清正の腕はなかなか持ち上がらない。目の前の白い天井を見つめたまま、さっきまで見ていた夢を思い出す。
(また、だ)
それは、ずっと幼いころから時々見る夢だ、内容はいつもほとんど覚えていない。ただ、声だけがはっきりと頭の中に響いて目覚めてもなかなか消えてくれなかった。
「とらのすけ、って誰だ」
声の主の姿はわからない。ただ、ひどくやさしい声で自分のことを〝とらのすけ〟と呼ぶのだ。自分はとらのすけなどという名前ではないのに、夢の中ではそれが当然だと感じているのも不思議だ。
ようやく頭のもやが晴れるころ、最初は遠慮がちに鳴っていた目覚まし時計がひときわ大きな音で騒ぎ出すから、おもいきりボタンを叩いた。
確か講義は2限から、そろそろ支度をしないとまずい。そっとベッドから離れるとき、この夢を見る日はいつも小雨が降るなと窓の外を見て思った。
=====
大学の駐輪場に原付を停めると、ポケットの中の携帯がブルブルと震える。着信ではなくメールだ。名前を見れば〝福島正則〟とある。幼馴染からの珍しい連絡に内容を確認すると、そろそろ連休があるからたまには大阪にも顔を出せ、日にちを決めて連絡しろ、というものだった。
そういえば、故郷から離れてもう2年ほどたつなぁ、としみじみ思う。熊本に進学先を選んだときは、建築の勉強ならほかでも、と少し渋られたが、なぜだかここしかないような気持ちがあってここまで出てきた。それは間違いではなかったと、今改めて思う。
(そういえば、)
こちらに出てきてから、あの夢を見ることが増えた。そして、声が少しずつ鮮明になっていく。
(ここに何かあるのか)
そんなことを考えながら講義室に向かう。あの夢を見て目覚めた朝は、いつだって足取りが少し重くなるから、扉も少し重く感じる。
何かありそうな予感だけそのまま、講義を終えればその後はバイトが詰まっている。明日は休みだからと少し無理な予定を組んだのを少しだけ後悔した。
=====
作業用の大きなぼんぼりが真夜中の道路を昼間以上に明るく照らす。その光を背に受けながら、清正は交通整理のために赤色灯を振っていた。
仕送りはもらっているが、それだけではなかなか厳しいし、何より建築の知識や経験が欲しかった。だから土木作業員のアルバイトをしているのだが。
(交通整理、か)
もちろんアルバイトで重要な仕事をもらえるとは思っていなかったが、これでは現役で働いている作業員の姿すら見ることができない。夜遅いから車どおりは多くないが、だからと言ってよそ見は許されない。緩い緊張感と、退屈さで、気分の悪いだるさが清正を包んでいた。
その時、どん、と背中に何かがぶつかる。どうやら重いものを運んでいた作業員がよろけたらしい。なかなかの衝撃に思わずつんのめると、左側がやけに眩しい。そこには、こちらに向かって走ってくるトラックがあった。もうずいぶん距離が近い。
運転手は居眠りでもしているのか、工事現場とは思えないスピードでこちらに向かってくる。すべてがゆっくりと見えるのに、なぜか体が動かない。
(まずい、)
もうどうしようもない、と目を思い切りつむると、何かに引っ張られて体がぐい、と後ろに引っ込んだ。次の瞬間目の前に大型トラックが突っ込んできて、キキーッ、というブレーキ音が響く。
何が起こったのかわからないまま呆然としていると、肩に誰かの手のひらの感触がある。助けてくれたお礼をしようと振り返ったそこには人影があるのだが、ぼんぼりの逆光で顔がよく見えない、でも、こいつは、
「まぬけやなぁ、虎之助」
頭の中に直接響くように声が聞こえる。姿をしっかり確認しようとしたその瞬間、ざわめきが清正の周りに戻ってきて、そこにあった陰はもうどこにもなかった。どこかから、大丈夫か!と駆け寄る声が聞こえてくる。大丈夫です、と立ち上がる清正の肩には、まだあの手のひらの感触が残っていた。
結局、騒ぎにはなったものの、けが人も破損物もなかった。トラックの運転手は居眠りをしていたらしいが、大事にしたくないという意向が一致して何もなかったことになった。
しかし清正にとっては、事故未満の出来事よりも、あのとき自分を助けてくれた人物のことばかりが気になった。
あの声、とらのすけ、という呼び方、夢と全く同じ。夢と違うのは、肩に置かれた手のひらの感覚だけだ。
(知っている)
そう思った。夢を見る前からきっと自分はあれを知っている。しかしそれが一体何なのか全く分からなくって、もどかしくて、歯を食いしばることしかできなかった。
〝○月×日、駅に15時半〟正則に送るメールを作りながら、そうだ、と思う。あいつに相談してみよう、この不思議な出来事のことを。
=====
「おーい!ここ!」
改札を抜けると、人の多いそこでぶんぶんと大きく手を振る正則を見つける。人垣をぬけてよぉ、と挨拶をすれば嬉しそうに笑った。
「久しぶりだな!どうだ熊本は」
「毎回聞くなそれ」
他愛ない会話を交わせばすぐに距離がなくなるこの関係は心地よい。今日のごはんはお前の好きなやつ一杯用意してあるからな!なんてはしゃいでいるのは、そのほとんどが自分も好きなおかずだからだろう。
久しぶりに二人で歩いて帰る道に、少し昔に戻ったような気がした。
夕飯も団欒も風呂も終えて、正則の部屋に向かう。清正の部屋はもう片付けてしまっているから、帰省するときはいつも彼の部屋の世話になる。
「正則は、」
「何?」
ベッドに腰掛けて髪をわしわしと拭く彼に声をかける。清正は部屋いっぱいに敷かれた布団に胡坐をかいている。
「同じ夢を何度もみることはあるか?」
「えッ何ソレ、無いよ」
髪の毛を拭き終わったのか、机に置いた水を飲みながら正則は清正にもコップを手渡した。受け取りながら、清正は話し始める。不思議な夢と、最近の出来事を。
清正が話し終わると、正則はそんな面白い話あるんだな!と目を輝かせていた。
「すげーじゃん、守ってもらったんだ!」
「でもバカにされたぜ」
まぬけって、そうため息をつけば、正則はあははと笑った。
「あれじゃね、守護霊とかじゃねぇの」
お前昔から、お化け見えるじゃん、そう言う正則にはっとする。そういえば最近、そういった類のものを見ていない。
「最近見てない」
「たまたまじゃん?」
「いや、多分、熊本に行ってから、だ」
そうなのだ。それまではしょっちゅう、というほどでもないが、それなりの頻度で所謂お化けというものを見ていた。よくある火の玉だとか、白装束の男、同じところから動かない老婆。しかし、熊本に行ってからはそういったものを全く見ていない。
「それに、言っただろ、熊本に行ってから夢がはっきりし始めたって」
だからずっといる守護霊とかそんなんじゃないはずだと、清正が言うと、俺にそんなこと言われても困る、と正則が眉尻を下げた。
「んなこといって、清正はどうしたいわけ」
不思議だね、でいいじゃん、そういいながら空になったコップを机の上に置くと、正則はもぞもぞとベッドにもぐりこんでしまう。
それではだめなのだと清正の心は騒ぐけれど、どうしたらいいのかは一向にわからないままだ。
電気消すよと声をかけられて、諦めて寝ようと布団をかぶったその時、電気の紐を引きながら思い出したように正則が声をかけてきた。
「そういや、熊本城には行ってんの」
「あ?あぁ、たまに」
そういいながら、まだ言っていない場所があるけど、という言葉は出なかった。
「落ち武者とかでないの」
「出ないな」
「ふうん」
建築への関心の延長で、清正が日本の城にも興味があるのは正則も知っている。おおかたお化けの出そうな場所でも思い出していたんだろうと呆れていると、また正則が口を開いた。
「・・・何度も同じ夢をみたことはないけど」
「ん?」
「一度だけ似たような夢見たよ、知らない人に名前呼ばれる夢」
「どんな?」
「お前の夢みたいにやさしくなかった。殺してやるってくらいの勢いで副島ァ!って」
よく覚えてないけどこわかったな、という正則の顔はもう見えない。
「何か昔悪いことでもしたのかな」
あはは、という正則の声が闇に溶ける。
昔、昔、自分たちが生まれるよりずっと前に、何かがあったのだろうかと、考えながら瞼を閉じた。目を閉じながら思い出すのは、何度か熊本城に足を運んでいるにもかかわらず、一度も足を踏み入れたことのない宇土櫓だった。
もう何度か言っているのに、時間だとか旅程を理由にしてなぜか避けていたのを思い出した。次の時にと言いながら、まだ一度も足を踏み入れてはいない。
(今度行くかな)
まるで一大決心をするかのような気持ちになるのが、不思議だった。
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大阪への帰郷を終えて、一週間もたったころ、清正は、宇土櫓の前にいた。正則と話をしてから、ここに来なければならない気がしていた。なぜかは分からないけれど、なぜか無意識に避けていたここで、なにかがつかめる様な気がしていた。
午前中に講義が終わる平日に来たから、人は少ない、というか、宇土櫓の周りにはいない。靴をビニール袋に入れて、一歩足を踏み入れるとき、なぜか体がびり、と痺れるような感覚があった。
もう夕方だから、櫓の中は西日が差しこんで思っていたより明るい。人が一人もいないせいでやけに静かだ。きょろきょろ見渡しながら順路を進んでも、何も思い浮かばない。思い出すことなど何もない。懐かしいような気がするのは、よく城に行くからだろう。
なんで自分はいままでここに来なかったのか、なぜ今ここに来ようと思ったのか、何もわからないまま、引き返す順路に入った、その時だった。数メートル先、さっきまで誰もいなかったそこに、誰かがいる。
西日の差す窓際から外を見ている。光が強くて顔がよく見えない。そろそろと近寄る。
(ただの、ただの観光客だ)
そう思うのに、心臓がどくどくとうるさくなり始める。髪が光を跳ね返している、服装もなんだか不思議だ。
あと少し、というところで、清正の踏んだ床がキシッと鳴った。それに反応して、その誰かがこちらを向く。
時間が止まったと思った。こちらを向いて、驚いた顔をしたと思ったら、この上なくやさしい顔で微笑んだ。心臓がばくばくとうるさい。
自分は彼を知っている。知っているのにわからない。思わず止めた足が動かない。自由になるのは眼球だけで、目の前の人物をじっと見つめることしかできない。
見つめた先の、口元が動く。声は届かない。
(とらのすけ)
そう、小さな唇が自分を呼んだ瞬間、足が動いた。
まるでそれがあたり前みたいに、呼ばれた先に駆け出した。
掴めないかもしれないと思っていた両肩は簡単に清正の手のひらに収まった。勢いにおされて目の前の瞳が見開かれる。
お互いに穴が開くほどじっと見つめる。
(何だ、こいつ)
見つめ合っているだけで、運動した直後のように心臓がうるさい。一般の客だったらとか初対面なのにとか、常識的な部分が頭の片隅で警告を鳴らすのに指先にこもる力は絶対に離さないと言っている。自分でない誰かの意思が自分を動かしている、そんな感覚だった。
声を出そうとして、自分の喉がカラカラに乾いていることに気が付く。ようやく絞り出した声は、自分でも今まで聞いたことのない声だった。
「あんた、誰だ」
その瞬間、目を見開いたままだった目の前の顔がふ、と緩んで、悲しげな微笑を見せた。
(-やめろ!)
清正の頭のなかで、怒りに似た強い感情が爆ぜる。そもそも何も知らないはずなのに、頭のどこかで声がする。こいつの、こんな顔はみたくない、と。
「あんた、一体、俺の何なんだ」
夢にまで出てきやがって。そう吐き捨てるようにつぶやけば、悲しげな笑みはそのままふうっとため息をついた。
「相変わらず、嫌われたもんやね」
何かを諦めたような顔をする。彼の表情が変わるたびに、頭のどこかで声がする。またお前は勝手に諦めるのかと、由来のわからない落胆と怒りが清正を取り巻く。
「何者なんだ、あんた」
これ以上ないくらいに力を込めていたはずの指先がさらに腕に食い込んでも、掴まれている方はそれに表情一つ変えやしない。
「なんでもええやん」
関西弁は聞きなれているはずだ。なのに、そのイントネーションの一つ一つが心を揺さぶる。
「まさか〝みえる〟とは思ってなかったんや。かんにんしてや」
やっぱり、と思う。こいつは、人間ではない。でも多分、幽霊やそういうものでもない。話ができるし、触れるから。
「見えるんなら、もう姿みせへんし」
怒らんといて、離して。そういって俯くその姿に、違う、違うと頭の中で声がする。お前がそんな、俺に気遣う言葉を言うはずがない。だってお前は、俺が―
「虎之助、さよならや」
俯いた顔を上げて、泣きそうな顔で笑う。その笑顔が頭の中を真っ白にして、指先にこもっていた力がスッとぬけた、その瞬間その体が少しずつ消えていく。
「ッ!まて」
ここで手を放してはいけない。そんな確信が清正を動かした。ポケットから出した紙切れを消えかけた体に突きつけた。しかし、何も起こらない。
「相変わらず、あほやな。お札なんて持ち出して」
ほんと、変わらない。
そう聞こえたと思ったら、もうその姿はなかった。
目の前にあるのは、さっきまでいたはずの彼を照らしていた、窓に差し込む西日だけ。天使の梯子のように、斜めに切りこむ光。
(また、手放した)
何がまたなのかわからない。けれども自分はまた失敗したのだと頭の奥がうるさい。そんな清正に、あの声だけが耳元でささやく。
〝会いたくなったら、名前呼んでな〟
(名前、なんて)
教えてもらってねえよ。崩れ落ちた清正は、その後閉門を告げる放送が流れるまでその場で呆然としていた。
=====
あの不思議な邂逅から、毎日のようにあの夢を見る。ただ、実物に出会ったせいで、声だけだった世界に、あの不思議な化け物(正体がわからないからそう思うことにした)が現れるのだ。微笑んで、とらのすけ、と自分を呼ぶ。やさしげな微笑と諦めた表情、少しの違和感をもって。
(姿、見せてんじゃねぇか)
はぁ、とため息をついて時計を見れば、まだ6時だ。二度寝はできない質なので、起き上がって朝の支度をした。
簡単な朝食も支度も終えたが、まだ家を出るには早すぎる。窓から差し込む朝日をみて、蘇る風景があった。
それはまだ清正が幼いころ、正則と喧嘩をしたときのことだ。理由は覚えていない。口を利かなくなるほどの喧嘩は初めてで、随分落ち込んでいた時に、母がやさしく教えてくれた。
『つらい時や悩む時にはね、なむみょうほうれんげきょう、って唱えてごらんなさい』
『なむ・・・みょう?』
『そうすればね、仏様が、どうしたらいいか教えてくれるわ』
母はやさしくそう笑うと、何度も何度もその不思議な呪文を教えてくれた。
『本当にこれでいいの』
『いいのよ、仏様は、いつだって清正を見ているのよ』
『本当に?』
『そうよ、姿は見せてくれないけれど、信じていれば、いいことがあるわ』
いまどき珍しく、清正の家庭は熱心な仏教徒で、その後いろいろなことを学んだ。
(信じていれば、)
太陽に向かって正座をする。なむ、と、あの呪文を唱える。こうしているときは、心の曇りが少しずつでも晴れていくように感じる。心が落ち着くまで、諳んじた。
(名前を思い出さなければ)
多分自分は、あれを知っている。自分の中に、あれを求める部分がある。だから名前も思い出せる。
方法は未だに見つからない。時間がかかるかもしれない。それでもいつかもう一度、名前を呼んでやろうと決めた。
あれが自分を、とらのすけ、と呼ぶように。
先ほどより高く上った日の光が、清正の瞳を鋭く突いた。
=====
決意をしたのはいいものの、どうしたらいいのかさっぱりわからないまま10日も経った。大学にバイトに暇ではないながら自分なりに思い出そうとしても、何も出てこない。
思い出せるのは、宇土櫓でみた人間ではない何かの姿と、自分を呼ぶ声、そして、彼に向かう自分の、怒りのような感情だけ。
(相変わらず、といった。そして、嫌われていると)
多分、昔自分が彼を嫌っていた、ということだろう。物心つく前に遭遇していたのだろうか。しかしそれならば、自分の内側に響く声は、相手に怒りながら、もう二度と失いたくないと強く叫ぶのは、誰だ。
自分の中に自分の知らない誰かがいる。その予測はあまりに現実味がなくて、しかしそうでないと話がまとまらない。
(俺の中に、誰がいるんだ)
胸を押さえて歯を食いしばっても何も出てきてはくれない。今は動くしかない。
何か参考になるものはないかと図書館をさまよってみても、知らない人の名前の思い出し方なんて、どこにもそんな本はない。
(心理学、なのか?)
一年の時に単位を取った時に使った書籍がありそうな場所に向かう。真剣に背表紙を眺めていたら、自分のしていることがバカげているように感じてため息がでる。
(もう来ない、ってあいつも言っていたし)
無理に思い出そうとしなくても良いような気がするが、毎日毎日夢を見るのだ。まるでそれは、自分の中にいる何かが、思い出せと警告しているように。
(・・・夢?)
は、と思い当って、夢に関する本を探す。
適当に手に取って、パラパラと眺めると、一つの見出しが目に入った。
「見たい夢がみられる、明晰夢?」
これだ、と思った。
貸し出しの手続きをして、家に帰るまでがやけに長くて、思わず原付の速度を上げた。
=====
(夢日記?夢の中で夢だと気が付く?)
本の中身を見ると、どうやら明晰夢とやらを見るには訓練が必要らしい。正直面倒だが、いまのところこれしか手がかりがないのだ。
とはいえ毎日同じ夢を見るのはわかっている。要は、夢の中であいつを呼び止められるようになればいいのだ。
眠りにつくのが怖いような楽しみなような、不思議な気持ちで瞼を閉じた。
一日目は、身動きが取れなかった。二日目は、あれが背を向けるところまで夢に出た。三日目は、自分の腕を伸ばすことができたような気がする。そんなことをもう一週間も続けて、清正は疲れていた。
特に今日はバイトがきつくて、くたくただ。そろそろゆっくり眠りたいから、今日くらいはあの夢を見たくないなとため息が出る。
目を閉じたらあの夢で目が覚める、でも寝ないと体が厳しい。今日くらいは休ませてくれ、と、清正は疲れ切った体を横たえた。
(これ、は)
ふと気が付くと、そこはいつもの夢の風景だった。真っ白で奥行きもなにも感じられない世界に自分が立っている。明晰夢というのに手を出してから、夢の中の意識がはっきりするようになってしまっているなぁと改めて思った。
(やっぱり休ませてくれないのか)
ため息をついて様子をうかがうと、目の前には奴がいる。
なにかこちらに話しかけている。いつもなら微笑んで名前を呼ぶだけなのに。こんなことは初めてで、心臓がどきりと高鳴る。けれど、声が届かない。聞きたくて近づこうにも、体はピクリとも動かない。
(くそ、何だってんだ)
どうにもならない体でもせめて手がかりが欲しくて、動く唇をじっと見つめていると、一瞬きゅ、とそれが結ばれた。かと思うと、毎日見ている、あの微笑が浮かぶ。
「とらのすけ」
もう、夢が終わる。体が動かない。駆け寄りたいのに動かない。まただめだ、頭の隅で諦めたその時だ。
「さよならや」
悲しくわらった。泣きそうな顔をした。ちょうどこの間、差し込む西日の中で消える前と、同じ顔だ。
(また)
このままではダメだと全身が脈打つ感覚があるのに、また何もできないのか。そう思った瞬間、いままでちっとも動かなかった喉に、力がこもるのを感じた。
「××××!」
その瞬間、自分の声で目が覚めたのか、ベッドの上で上半身を起こしている自分がいた。今、自分は、なんと叫んだ?
「や、く?」
口の動きを何度も思い浮かべるが、最初の二文字しか思い出せない。けれどもきっと、これは。
(名前―)
新しい手がかりを手に入れて時計を見ると、もう家を出なければならない時間で。
初めてみた夢の余韻に浸る余裕もなく、清正は部屋を飛び出した。
=====
(やく、やく、やく・・・)
講義の合間の昼休み、食事もそこそこに、机の上に広げたルーズリーフにかしかしと書き込んでいく。役、約、訳、薬、どれも名前につながりそうでつながらない。いまいちピンと来ないのだ。
そもそも、やく、で始まるのが苗字なのか名なのかも定かではない。相手が自分をとらのすけ、と呼ぶのだから、きっとこちらも名で呼んでいたのだろうが、やく、で始まる名前なんて思いつかない。思いついても、ピンとこない。
何度も自分の唇の動きを反芻しても続きは出てこないし、そもそも、本当に最初の二文字が〝やく〟だったのかも怪しくなってきた。
(畜生、)
諦めて、振り回していたペンを机に置くと、背後からよぉ、と声がかかる。
「隣いい?」
「黒田か」
清正は自分の荷物を寄せて相手に開ける。あんがと!と言いながらどかりと隣に座るのは、黒田長政、こちらに進学してから知り合った、同級生だ。いつも先輩の後藤と一緒にいるが、今日は別行動らしい。後藤先輩は、と聞くと、ゼミの集まりだって、と面白くなさそうに言った。
「何やってんの?さっきから」
清正が汚したルーズリーフを眺めて聞かれるのに、説明するのも面倒で、何でもねぇよと適当にはぐらかす。
となりで長政がもそもそと弁当を食べ始める。たしか後藤が作っているらしい弁当は、今日も色鮮やかでさすがだなとため息が出た。
「うまいか」
「又兵衛の弁当はうまいよ!でもいつも俺の嫌いなブロッコリー入れるんだよ」
眉間にしわを寄せながらそれでも一生懸命ブロッコリーと格闘する長政がなんだか微笑ましい。
「何?」
清正の視線に気が付いて長政がこちらを向く。特に質問は用意していなかったけれど、そうだと思い立って尋ねてみる。
「やく、で始まる名前って何か思いつくか」
「やくなんとか、ってこと?」
「そう」
長政は、最後のブロッコリーを咀嚼しながらううんと唸っている。
「・・・やくべぇ?」
ようやくブロッコリーを呑み込んだ長政の答えに、清正は思わずわらった。
「後藤先輩の名前からもってきてんじゃねえよ」
言われた長政は、だって他に思いつかないもん!とほほを膨らませた。随分子供っぽいしぐさなのに、なぜか似合うのは甘やかされて育った証拠か。
「もう、何してんだか知らないけど、ありそーな名前作っちゃえばいいんじゃないの?」
まさ、とか、すけ、とか、一郎、とか!そういって弁当箱を仕舞う長政の提案に、一瞬ドキリとした。
しかしその感覚の原因を探る前に、長政がやべぇ講義!とつぶやくのが聞こえて、清正も席を立つ。
机の上から乱暴にひったくったルーズリーフの、薬、の文字がちらりと目についた。
=====
(まさ、とか、すけ、とか、か)
久々にバイトの無い金曜、昼過ぎに家に帰った清正は、長政の言ったことを思いだして実践していた。
やくまさ、やくすけ、頭の中で勝手に名前を作っても、あほらしくなるばっかりで何を思い出す予感もしない。昼休みのルーズリーフを引っ張り出して、また書いていく。
(やく、やく・・・)
自分がとらのすけ、と呼ばれるくらいだから、古臭い名前の方がはまるかもしれない。
(やくべぇ、やくのすけ、やく・・・)
どれもありそうでなさそうな名前にしかならない。
(たろう、やくたろう?)
やくたろう、という音が少し引っかかって、頭の中で作った音をそっと声にしてみる。
「やく、ッ」
た、を発音しようとすると、喉が突然きゅ、としまる。さっきまでとは違う、緊張感が自分の周りにまとわりついた。
(まさか、な)
本当にこんなことで何かが起こるなんて思っていなかったから、突然の自分の変化に戸惑う。
「やくッ・・・ろ!」
こんなのは何でもないのだ、気のせいだと思いたくて、もう一度口にしようとすれば、また、た、で喉がつかえるから、勢いで、ろ、と音が出る。その瞬間だった。
頭の中がさあっと晴れたような気がして、逆に視界がかすむ。自我が遠のいていくような感覚の中で、自分ではない誰かが自分の口を動かす。
「弥九郎」
確かに自分の声なのに、自分ではない誰かの声にしか聞こえなかった。しかし、その名前を聞いたとき、全身が内側から震えたのを感じて、意識を手放した。
=====
武家屋敷の中に二人、誰かが座っているのが見える。いつもの夢と違うのは、まるで自分が映画を見ているような、それでいて、過去を思い出しているような立場になっていて、その場にいないことだ。
その風景は初めて見るはずなのに、とても心に馴染んで、まるで自分の家に帰ってきたような気持ちがする。
(あれは)
こちらから顔がうかがえるのは、今自分をもっとも悩ませている人物
(や、くろ、う)
頭の中で、先程聞こえた名前をなぞっても、今度は特になにも起きはしなかった。
その〝弥九郎〟の向かいに誰かいるのだが、顔はわからない。清正はそっと耳を澄ませた。
「行くのか」
顔の見えない男が言う。それに弥九郎が答える。
「行くよ」
「そうか」
聞いたことのある声、聞いたことのある会話、何のことかはわからないのに、これは二度目だと何かが清正に教えている。
「今まで、お世話になりました」
わざと軽い調子で言う弥九郎への返事は、ない。
「宇土のこと、あとは頼んだで」
弥九郎の独り言が続く
「君になら、心置きなく任せられる」
「だから、」
やくろうが何かを言いかけた時、ずっと黙っていた向かいの男が大声を出す。
「今更!」
「なん、」
「今更なんでそんなことを俺に言う。宇土のことなどお前に言われなくてもわかっている!最後だからと感傷に浸るのか!おまえは…」
棘のある言葉とは裏腹にその声には悲痛な色がこもっている。
「お前は、負けるつもりで戦に出るのか!?」
「……清正」
その時、弥九郎が口に出したのは、確かに自分の名前だった。それが耳に届いた瞬間、頭がガンガンと鳴り始める。
「切腹もできないくせに戦で負けて、その首どこかにさらすつもりか!」
だからお前のことは嫌いなんだよ、と清正と呼ばれた男が舌打ちをした。そうだ、と顔の見えない男に自分の心が同調する。
(俺は弥九郎が嫌いだった)
「安心しいや、僕も君のこと嫌いやさかい」
それなのに、弥九郎が苦笑いで言うその言葉がなぜか清正の心に刺さる。たぶん、男の心にも刺さっているだろうと思う。
「じゃぁ、なんでそんな顔で笑うんだ」
そういうと、男は立ち上がって弥九郎の前にしゃがみこんだ。二人が見つめ合うと、清正の視界にも、いっぱいに弥九郎の顔が広がる。
(やっぱり)
清正は、顔の見えない男に心が同調して、一つになるのを覚悟した。そして、清正は、清正と重なった。
「そんな顔って、どんな、」
顔や、と続けようとした弥九郎の声はしかし、音になる前に消えた。
その唇を、男が、清正が塞いだからだ。
唇を合わせるだけの時間がどれだけ続いたかはわからない。一瞬にも永遠にも感じられる時間だった。唇の離れる瞬間の、切なさが身を裂くかとさえ思った。
「弥九郎」
「な、んや」
そんな昔の名前で呼んで、とまた苦笑いに表情を戻す弥九郎を、清正は抱きしめる。
「死にたくなったら、俺のところに来い」
「な、んで、んなこと、」
「俺がお前を殺してやる」
俺がお前の首を刎ねてやる。まるで睦言を言うような甘い声で清正が言うと、弥九郎は一度だけ清正を抱きしめ返すと、肩口に額を押し付けて、震える声であほ、とだけ言った。
それも一瞬のことで、弥九郎は、顔を上げて清正に笑いかける。夢で見ていた、あのやさしい笑顔だ。
「虎之助」
耳に届く声もやさしく、清正が見つめ返す。抱きしめる腕に少し力がこもる。
「さよならや」
そういうと、力の抜けた清正の腕をすり抜ける。振り返ることもなく、部屋を出ていった。
清正は、名前を叫びたくなる喉も、追いかけたくなる足も押さえつけて、歯を食いしばりながら弥九郎の離れていく足音だけを聞いていた。
=====
目が覚めた時はもう夜で、部屋の中は随分暗かった。不思議な感覚はある。ただ、今までの自分でなくなった感じはなくて、長いこと忘れていたことをたくさん思い出した、という感じだ。逆に、なんで今まで忘れていたのかの方が不思議だった。こんなに求めていたのに。
(弥九郎)
名前を呼ばなければ。思い出した名前を。
「やくろ、」
名を呼ぶのだと、意図をもってその名を口に出せは、声が震えた
「弥九郎、弥九郎」
一度形になった名前は、それまでを取り戻そうとするかのようにあふれてくる。
(早く来い、呼べば来るといっただろう)
「やくろ…行長、」
「来い!小西!小西行長!」
何かにすがるように名を呼ぶ。月の光が、開いたままのカーテンから差し込んで暗い部屋を照らしている。清正のもとには、何も訪れない。
もう駄目なのか。ふ、と諦めそうになる清正は、うなだれて、それでも力なくその名前を呼んだ。
「ゆきなが」
「なんや」
しかし、あると思っていなかった返事があった。勢いよく顔を上げると、今度は月光の下で微笑むその人が、そこにいた。
「そんなに何度も呼ばんでも、聞こえとる」
座り込む清正の目の前にしゃがむその人は、確かに、確かに小西行長その人だった。
「思い出したんか」
「あぁ」
そっか、とつぶやく行長は、フクザツやね、とまた苦笑いだ。
「久しぶり、やんな」
「あぁ」
確かめるように清正が伸ばした手は確かにまた行長の腕をつかむ。触ることはできるけれど。
「お前、人間じゃないんだろ」
「ん、」
「じゃぁ、いったい何なんだ」
過去の記憶持って、見ることも触れることもできる。呼んだ瞬間に姿を見せることもできる。彼は、一体。
「天使、っちゅーやつや」
その口から飛び出した驚くべき事実に、清正は目を丸くした。
「は?」
「天使、天の使い。知っとるやろ」
そういうと、行長はそれまで隠していた白い羽を清正にさらした。絵画などで見る、ちょうど人間に丁度いい大きさの羽が、左右対称にくっついている。
何とも言えない沈黙が流れる。打ち破ったのは、清正だった。
「……これ、生えてんのか」
しばらく呆然としていた清正が、ようやく、といったように思わず手を伸ばせば、優しくしてな、とふざけた声が聞こえてくる。
恐る恐る触れたそれは白くふわふわとしていて、作り物ではなさそうだ。くすぐったい、というささやきが聞こえるまで、清正はずっと行長の白い羽を撫でていた。
「なんで、近くにいた」
ずっと思っていたことを尋ねる。事故から守ったり、宇土櫓にいたり、熊本に来てから居心地がいいのはきっとこいつのおかげだと今ならわかる。
「なんで、呼んだんだ」
こいつに呼ばれてここまで来たのだとそう思った。
「俺を、地獄にでもつれていくのか」
珍しく一方的に質問を投げつけながら、それならそれでいい、と清正は思った。そんな清正に、行長はまた笑う。
「僕は何回きみにあほって言えばいいん?」
呆れたような声に、自分が見当違いなことを言っていたのだと知った。
「なんで僕が君を地獄に連れてかなあかんねん」
連れてけるならさっさと殺しとるわ、とさらりと恐ろしいことを言う。
「なんでって、なぁ、君がずっと呼んでたんやないか。やくろー、やくろーて」
うるさくてかなわんかったわと言いながら、ずい、と清正顔を覗き込む。
「安心したか?寂しがり屋の虎之助クン」
目の前の意地の悪い顔、大嫌いだ。俺の言うこと一つも聞かない、俺を侮る、最後まで手に入らない、一緒にいるだけでイライラする、ずっと、そう思っていたのに。
いつの間にか欲しくなっていた。多分最初から欲しかったのだ。手に入らないからこんなものいらないんだと自分に言い聞かせて、大嫌いだと言って。
(あぁ、そうだ。俺が呼んだ)
認める言葉の代わりに、すぐ目の前にある体に両腕を伸ばす。欲しくて仕方なくて、いらないと、嫌いだと自分をごまかして、諦めて失った体を抱きしめる。そのときにのぞいた顔が少し驚いていたような気がして、気味が良い。
「あぁ、おかげさまでな」
そういって抱きしめる腕に力をこめれば、そりゃ、どうも、と、気の抜けた声がした。首に手を添えて、つながっててよかったな、と冗談を言えば、笑えない、と怒られた。
「本当は」
行長が真剣な声で話し始めるから、抱きしめた腕を緩めて向き合う。気まずそうな顔をする行長をみつめて、清正は先を促す。
「君に殺してほしかった」
その瞬間、ぞく、背筋に何かが走る。
「君のこと、大嫌いやったけど」
月はまだ行長を照らしている。
「殺されるなら君が良かった」
行長がそういったとき、月の光が雲に遮られて部屋が俄かに暗くなる。清正は、その体を床と自分の間に閉じ込めた。
「殺してやる」
その言葉に相手が息を飲むのがわかった。
「今度はちゃんと、奪ってやる」
行長の返事を待たずに、清正は行長の首にかみついた。
=====
「なん!てこと!してくれるん!」
裸の体をシーツでかくして、半身だけ起き上がって、真っ赤な顔をして。朝からぎゃんぎゃんとうるさい行長に、清正はあー、とかうーとか適当な返事をする。一人用のベッドに男二人は狭いななんて思いつつ、寝返りを打って背を向けた。
「清正!君自分がなにしたかわかってんやろな!」
「なにって、セッ「言わんでええんや!」
最近よく眠れなかったから、清正はまだ眠い。背を向けて眠ろうとすると、おいこら聞いとんのか!と罵声が飛ぶ。
「最悪や!もう帰られへん!」
そう、小西が清正からぶんどった枕に顔をうずめると、それを聞いた加藤がむくりと起き上がる。
「どないしてくれる、ん?」
うるさい、とも言わずに、清正は行長の唇を唇で塞いだ。一瞬でだまるのが面白くて、口の端だけで笑う。
「帰さねぇよ」
そういうと、硬直する行長の肩をぐい、と引き寄せてベッドに引きずり込む。
「寝るぞ」
抱きしめた体がおとなしいのを了承ととらえて、もう一度眠りにつく。
もう、あの夢は見ない。