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その傷を最初に見た時の嫌な気持ちの理由をいつまでも探している
熱い手のひらが遠慮なく義堯の身体をまさぐっている。耳元の息遣いは、荒い。
こうして彼が会いに来ては体を重ねる関係は、そう長く続かないと、思っていた。思って、いたのだが。
(もう、どれくらい経った)
快感に火のついた体を好きなようにさせながら、ぼんやりと考える。良いとか悪いとか判断する前に、抗いがたい欲をぶつけ合ってどのくらい経つ。
そんな事を考えていたら、急所をもみこまれて頭で火花が散る。その指が奥へ奥へと進んで、それに期待する身体はもう、自分のものではないと思わなければやっていられなかった。
ぐちぐちと嫌な音が暗闇の中に響く。静かな分、小さな音が耳について耳を塞ぎたくなる。慣らされた体は簡単に快感を捕まえるからすぐに、ぐずぐずにされてしまう。そうなってしまうだけの時間を、目の前で自分を組み敷く男にくれてやってしまったのか。
後ろに、ぴたりと指ではないものが張り付く。昔あった恐怖はもう全部期待に変わって跡形もない。ぐぐぐ、と埋まっていく腰を受け入れる。
少し押し込まれればすんなりと侵入してしまうのも、
「あ、」
素直に声を上げてしまうのも
「あぁ、」
後ろの穴で肉棒を感じて〝良い〟と思ってしまうのも
「…ッくそ」
出会ったころとは、こんなに変わってしまった。憎しみの気持ちだけは、そのままなのに。この身体も、目の前にある身体も。
快感に歪む氏康の顔に、一筋入った赤がある。つい最近ついたらしい傷はもう跡になりかけていて、新しい皮膚ができていた。
(…こんな)
今日、相変わらずのこのことやってきたとき、いつものように浴びせたい罵声が一瞬のどにひっかかった。見知った顔についた鮮やかな傷跡に息を飲んだ。
(…こんな傷つけられやがって)
なぜかその場で傷について触れることができずに、いつものように押されるまま招き入れてしまった。
(こいつは)
その時から、ずっともやもやしていた。彼の顔にできた新しい傷、残された戦いの痕跡。
(こいつは・・・?)
「…よし、たか、どの?」
声をかけられてはっとした。知らぬうちに自分の手が顔の傷に伸びていたらしい。快感で朦朧としていたせいで、制御できていなかったのだろうか。
「…やはり、気になりますか」
氏康がそっと顔を近づけてくる。自然に受け入れた唇はなまぬるく柔らかく濡れていた。
「別に」
嘘だ。口にした瞬間心の中の自分がそう言ったのが聞こえた気がした。
「お前の傷なんて興味ない」
嘘だ。今日ずっと見つめていたのだ、赤い赤い、一筋の刀傷。いつ、どこで、誰が、この顔に傷をつけたのか。でもそんなこと聞けるわけない。興味の無いふりを続けなければ。
「どうでもいい」
そう言った義堯に、氏康の顔がゆがむ。
「そうですか」
口付けの時から止まっていた律動を突然再開されて義堯が小さく悲鳴をあげた。それまでより激しい腰の動きに体全体がぐらぐらと揺れる。
(俺をこんな風に扱う癖に)
熱い肌と肌が重なって、筋肉の動きを感じる。奥の良いところも、前も、同時に擦られてどうにかなりそうになる。
(顔にこんなでかい傷くらいやがって)
背中にまわした指に力がこもる。
(おまえは、おまえは)
これ以上考えてはいけない気がして、快感に身を任せた。視界が揺れるから目を閉じる。もうすぐだ、もうすぐ。弾けそうな快感を捕まえようと追いかける。
氏康が、くぅ、と歯を食いしばった時、どくん、とどちらともなく脈打った。二つの体が同時にぶるりと震えて、青臭いにおいと荒い息遣いだけが部屋に残る。
(お前を)
近づいてくる顔を、じっと見つめかえす。相変わらず濡れた唇の優しさが悔しかった。犬歯に力をこめる。ぷつりと音が聞こえた気がした
「ッ!」
突然の出来事に驚く氏康をしり目に、自分の唇に残った血をペロリと舐める。
(お前を一番傷つけたいのは俺なのに)
こんな風に、すぐ癒える傷をつけて憂さ晴らしをすることしかできない。それがひどく悔しい。血が足りなくて、舌を伸ばして氏康の唇の傷を舐めた。
「次に刀傷作ってきたら」
鉄の味が口に広がる。氏康が唇の血を拭うから口の横にもう一つ、新しい赤い線が引かれた。
「今度は違うとこかみちぎってやるよ」
口の端をあげてそういえば、噛みつくように口づけをされた。
口の中分け合う血の味が、一時だけ義堯の憂鬱を慰めた。PR -
「最近嫌な夢を見るのだ」
まるで告解を求める信徒のような顔で、久しぶりにあった友が口を開いた。
その吐息から花の香りがしたような気がして、隠した思いが浮き上がりそうになる。
「聞いてくれるか」
自分が今まで彼の願いを拒んだことがあっただろうか。抵抗する術を持たないまま、高山右近はうなずいて、庭を進むその背中を追いかけた。
関ヶ原の戦いより後、少しやせた気がする背中に触れたくなる。寒くなりかけたこの時期に上着は忘れたらしい。しかし、寒いだろうと身を寄せるには、自分の下心が咎める。
「夢の中で、たまが私を呼ぶ」
言われて、つい先日失われたばかりの女性の面影を思い出す。彼の愛した彼女は本当に美しい、キリシタン、だった。
「呼ばれるままに部屋を進むと、棺がある」
人質になることを拒み、命を差し出したその最期はもう有名な話だ。
「棺の中には目を閉じたたまがいて、私はそれをじっと見つめている」
失くした室の話をされて、相槌をうまく挟めるほど距離のある関係ではない。ただ後を追いかけて話を聞くしかできない。忠興もそれで満足しているのか、振り向くことなく庭を歩く。
「見つめていると、息が苦しくなって」
庭はもう秋を過ぎて冬の色だ。冷たい風がひとつ吹いて、目の前の背中がまた一回り小さくなったように見えた。
「せき込むと、口から花が出てくるのだ」
思わず高山は足をとめた。愛する人の納まる棺の中に、花を吐き出す彼を想像した。その美しさと、それを美しいと思うことへの背徳感が混ざる。
足音の消えたのに気が付いたのか、振り向いた忠興の顔は、やはり少しだけ力がない。しかし滅多に見ることのない彼の憂えた顔は白く、今しがた想像したのより、美しく映る。
「そう、身構えてくれるな、夢の話だ」
そういってまた歩き出す忠興に、ようやく高山も歩き出す。
「こんな話ができるのは、高山殿くらいなのだから」
ずるい、そう思わずにいられなかった。自分の葛藤など置いてきぼりで、こんな風に甘えるなんて。
「…いくら吐き出しても花は出てきて」
そのくせ、その恋心を、もう亡い人に預けたままで、こんな話を聞かせて。
「たまの好きだった花で棺がいっぱいになるころ、ようやく目が覚める」
顔など見なくても、表情がわかるような声だった。
「これが恋煩いだとでもいうなら」
歩調を緩めて、空を見上げている。高山も追うように空を見上げた。
「死ぬまで癒えまい」
悪夢だよ、そうつぶやいた彼がぴた、と立ち止まり、こほ、と一つせき込むから、高山はあわてて自分の上着を脱いでその肩にかけた。ありがとう、と忠興が自分の肩に手を添える。指と指が触れた、それだけなのに、なぜかこみ上げるものがあって、高山は慌てて指を離した。
「風邪でも召されたか」
「…少し寒いな、そろそろ戻ろう。暖かいものを用意させる」
高山の上着に遠慮なく包まれた忠興が庭から屋敷へ足を進める。後を追おうとした高山の足元に、まっしろな何かが落ちていた
(花・・・?)
あたりを見渡しても、花をつけた木などない。不思議に思って拾い上げる。嗅いだことのないような甘いにおいがして、くらくらしそうだ。
〝せき込むと、口から花が出てくるのだ〟
先刻の言葉を思い出す。まさかな、と思いながら花を見つめる。彼の横顔を思い出したら、胸がつかえた。そのまま感覚が喉までせりあがって、思わずせき込む。
「けほ、」
覆った手のひらが何かをとらえた。痰でも出たかと慌てて手のひらを見れば、そこにあったのは。
(あぁ)
頭の中で声がする。
〝これが恋煩いだとでもいうなら、死ぬまで癒えまい〟
手のひらに、二つに増えた白い花が、甘い香りも倍にして、高山をじっと、見つめていた。 -
何もかもが変わったけれど、何も変わっていないと思った。
どちらが夢か
ふ、と浮き上がる意識とともに薄くまぶたを開けたら義堯の目の前にあったのは喉仏だった。頭をもそりと動かして顔を見れば、彼はまだ夢の中のようで、起きる気配はない。
規則的な寝息を聞きながら、自然と指がその顔に伸びた。古い記憶にだけ残る傷跡をなぞってみる。
(確かこの辺、から、こう)
記憶の傷を再現するように爪で頬を撫でる。かつて身体中に刀傷を作っていた男の肌は、今では傷跡さえ見当たらなくて、美しいまま保たれている。
たしか胸のあたりや脇腹にも大きな傷跡があった。全て覚えているのかと自嘲を漏らした時、背中に回っていた腕にこもる力が強くなった。
起きた、わけではないようだ。何か夢でも見ているのだろうか。
夢なら義堯もよく見る。昔々、まだ自分が他の人生を歩んでいた時の夢だ。罠と下剋上と戦いの日々、その中にあった、ひどい執着の夢だ。
(うじやす、)
その夢の中で自分を何度も抱く男が目の前に現れた時は驚いたし、その男が自分に、なんの戸惑いも、驚きもなく、はじめまして、と挨拶した時は、こんなもんかと呆然としたものだ。
(なんで俺が覚えてて、お前が)
惹き合ったと思っていた魂が一方通行だったのだと言われたような気がして、自分の中にだけ残る執着は行き場を失った。しかし、義堯の苦しみはつかの間のことだった。
氏康は、変わっていなかったのだ。再会してからの態度は、記憶の中と全く同じだった。強引で、しぶとくて、強い男。
だから義堯もそれに応えた。つれなくするのは簡単だった。だって一回経験済みだ。
この出会いは運命だと思うのです、真っ直ぐな瞳でそんなことを言われたら、彼の魂の変わらないこと、お互いの引力を疑うすべなどなかった。
バカじゃねぇの、と応えたのは我ながら満点だったと義堯は思う。
昔もわからなかったことだが、平和な時代で肌を重ねるようになっても、まだ自分の気持ちは分からない。愛だとか恋だとか呼べるほど美しくも優しくもないけれど、そんなものよりひどい執着だ。
(離せない)
彼の心を引きつけておけるなら身体だって使えた。もちろん自分から差し出したりはしない。奪わせるのだ。氏康が愛しているだとか好きだとか言うたびに襲う罪悪感くらいでは、どうにもならないくらいに焦がれていた。奪い合う関 係の甘美は、彼で無いと与えてはくれまい。
目の前の肩に頭を寄せれば、いつか、その肌の熱さに抗って身をよじった日を懐かしく思い出す。
自分を抱く時の、まぶたの奥が昔と同じに、猛獣のギラつきを孕んでいたときは全身が粟立つほど興奮した。
記憶など、なくても、お互いがこんなに求めている。
それだけでいいのだ。
目が覚めたら、腕の中からすり抜けてやろう。それまではこの男が自分のものである満足を吸い取っていよう。
(今度は俺が先に死んでやる)
だから、次はお前が俺を追いかけてこいよ、そう思いながらまた目を閉じる。
目覚まし時計の鳴る30分前、義堯はつかの間のまどろみを待った。
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「氏康さんのことでお話が」
貴重な休日、だらだらと過ごしていたらインターホンが鳴った。こんな日に誰だと玄関の扉を開ければ、何度か見たことがある顔がそこにあった。
少し俯いて言いづらそうに、眉間にしわを寄せる彼を、義堯はほぼ無言で自室に招き入れた。
つい先ほどまで氏康が座ってコーヒーを飲んでいた場所で、多目という男は出されたグラスを睨み付けていた。
「で、話って何だ」
自分は適当なインスタントコーヒーの入ったカップをもって向かいに座る。
「見当はついているでしょう」
確かに、だってこれも、〝はじめて〟ではない。沈黙を肯定と取ったのか、多目はためらいなく言った。
「氏康さんと、別れてください」
口調は穏やかだった。
「彼は優秀な人物です。これから父、氏綱さんの事業を次いで社長になる方」
そんなことは言われなくても知っている。返事はせずにインスタント―コーヒーをすする。妙に焦げ臭いそれは義堯の舌には合うが、良いものを知っている氏康はもしかしたら苦手なのかもしれない、などと考える。
「そろそろ結婚して、跡継ぎも必要になります」
その言葉に、義堯の眉がピクリと反応したのを多目は見逃さなかった。何を急いだのか、言わなくてもいいことを、言った。
「現代では、愛人というのも外聞が悪い」
その言葉に、ハッとする。もしかして。
「お前、覚えているのか」
多目はすこしだけ目を見開くだけで返事をしない。代わりに、グラスの中でわずかに溶けた氷がカランと涼しげな音をたてた。
「……別れるって、言ってもよ」
少し冷めたコーヒーが何故か先ほどよりも渋く感じて、コトンとカップを机に置いた。
「別に俺たち、つきあってないぜ」
「そんな!」
「それに」
義堯は下から多目を睨み返す。
「そういう話は氏康の野郎に直接言えって」
昔もいっただろ、と言葉にはせず眼差しで伝える。伝わったのか、多目はばつが悪そうに眼をそらした。
「俺のところに来るも来ないも、あいつの勝手だ」
今度は多目が沈黙を守っている。
「あいつが離れていくときは、追いかけないから安心しろよ」
もういらなくなったコーヒーを片付けようと、カップをもって立ち上がる。
だからもう帰れ。キッチンへと多目の横を通り過ぎる。その時中身の減っていないグラスを回収しようとしたその手を、取られた。
「…何だ」
「直接言って、聞くと思いますか」
「さぁな」
聞かないだろう。下手をすれば、義堯と生きる覚悟を一層固くしてしまうだろう。
「死ぬまで、このままいるつもりですか」
多目はこちらを見ていないから、その表情は分からない。唯一見えるつむじに向かって、返事をした。
「それもいいかもな」
その瞬間、つかんでいた手がゆるむから、食器を引き上げて台所に向かう。
「お邪魔しました」
そう言って多目が出て行って、扉がパタンとしまった時、義堯のつぶやいた言葉は、誰の耳にも届かず消えた。
「死ぬまでじゃ少し、物足りないか」
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「蛍が美しいですよ」
戸の向こうの弟の声に呼ばれて外に出れば、庭に蛍が舞っていた。
飛び回る雄の鋭い光と、それを待つ雌の柔らかな光が、庭のあちこちで明滅する。その光を楽しみたくてそっと灯りにしていた火を吹き消したとき、自分でない誰かが同じようなことをしている景色が一瞬浮かんで、しかし火と一緒に消えてしまった。
二人で、だまって眺めた。不思議な黄緑は、皿に焼き付けることも布に染め付けることもできない色で、闇に浮かんでは消えて、また浮かぶ、その儚さだけが心に張り付く。
何かが動く気配に首を動かせば、弟が草に手を伸ばしてホタルを捕まえていた。
(あぁ、)
昔と同じだ。思い出す。あれはもう、随分昔のことだ。
―――――
あの日蛍を見ようと提案してきたのは兄だった。
また大内で覚えてきた風流な遊びかと嫌味を言いたくなるのをこらえていたら、幼い弟に背中を押されてしぶしぶ庭に出た。
弟二人が座ったのを見届けて、兄が火を吹き消す。元春はその横顔をじっと見つめていた。焦げた煙の臭いが鼻をかすめた。
光で線を描きながら、庭を蛍が舞う。
元春には風流も何もわからない。それでも美しいとは思って、見とれた。でもすぐに、美しいとしか思えない自分が、考えてもわからない兄の心が、嫌になった。
(兄上は、)
何を思うのだろうか。昔を思い出すのか、否、
「えい!」
らしくない物思いは、幼い弟の声に断たれた。
「つかまえました!」
そう言って、合わせた手のひらを優しく開く。不思議な色の光がまだ小さな指の間から漏れている。
隆景はそれを嬉しそうに兄たちの元へ持ってくる。
弟に手を差し出された隆元が、両手で皿を作ると、隆景はそこにそおっと蛍をとまらせた。やさしい光は、メスだろう。
「きれいだね」
隆元が自分の手のひらを覗き込む。兄の横顔が淡い光に照らされて浮かび上がるのを、元春はじっと見ていた。
「きれいだ」
もう一度そう言った兄の目はじっと蛍を見つめているから、元春が見つめているのが自分だなんて思ってもいないだろう。
元春の目には、優しい光に照らされた、兄の横顔だけが映っていた。
闇の中に、筆で書いたようにくっきりと浮かび上がる顎の曲線が現れては消える。光を映す瞳にも色がついて、瞬いている。
見とれていた。だから、突然話し出した兄の言葉に返事をするのが遅くなった。
「たわごとを」
兄の言葉に、しっかり向き合うのは、いつだって苦手だった。
何の話かも理解せぬまま、見とれたことをごまかすために、冷たく返事をした。
―――――
「兄上?」
目の前の弟はもう幼くなかった。随分男らしくなった手の中に、あの時と同じように蛍の光を閉じ込めて笑っている。
「おまえらしくないな」
大人になって随分落ち着いた弟にもまだやんちゃな気持ちが残っていたのが意外だった。
弟の中の蛍の光は、しかし記憶よりもすこし鋭い。
「雄か」
「幼いころは雌しか捕まえられませんでしたが」
そう言いながらその手を差し出してくる。昔兄がしていたように、今度は元春が手のひらで皿を作った。
手の中で暴れるのか、隆景はなかなか手を開かない。
「なぁ、隆景」
「何です」
幼かった彼は、覚えているだろうか。
「〝あのとき〟兄上は何と言ったか」
隆景が、目を見開いた。その後苦笑いをして、さぁ、と返事をした。
「何か言っていましたか」
ようやく、隆景が優しく手を開ける。蛍が元春の手のひらにぽとりと落ちてきた。
飛んでいかないように、手で檻を作る。
昔兄の手のひらにいた蛍よりも、随分明るい。
予想していたよりも、蛍は手の中でおとなしくしている。チカチカと瞬く光は今も美しいだけだった。
「美しいな」
思わず漏れた声に、そうですね、と兄に似た優しい声が応えた。
美しいと思うだけでよかったのだと、今ようやく、そう思える。
「美しい」
なぁ、兄上、心の中でそうつぶやいた時、突然、蛍が羽を開いて、手のひらの檻からすうっと出ていった。
その光が闇に線を引いて消えていくのを見て、思い出した。
兄は、こういった。
〝きっと私は二人より先に逝くだろうから、そしたら〟
優しい苦笑いを思い出す。少し寂しげな、眉尻を下げた、困ったような顔を。
〝そしたら、蛍に生まれて、会いに来るよ〟
蛍を闇に見送りながら、元春はつぶやいた。
「たわごとを」
蛍になんかならなくても、十分美しかったのに。
それを伝える術を持っていたら、何かが違ったのだろうか。そのままの姿でそばにいてくれれば、それでいいのだと。
若い自分を責めながら目を閉じる。瞼の裏で残像がゆっくり消えていく。
「もういいだろう」
黙ったままの弟の返事を待たずに、立ち上がる。目は暗闇に慣れて歩くのに差し支えはない。廊下を戻ろうとする元春の背中に、隆景が優しく声をかけた。
「もうきっと、あんなに美しい雄は捕まりますまい」
昔の兄の言葉も、自分の後悔も、すべてわかっていたのだろう。弟のつぶやきに顔だけで振り向くと、口元の笑みだけで返事をした。
蛍は未だ明滅を繰り返す。夢には出てきてくれるなよと、もう一度庭に目をやれば、一際明るい光が、返事をするように瞬いて、消えた。 -
じめじめとした空気が肌にまとわりつく。吹き付ける潮風にはもう昔から慣れているが、拭っても、拭っても消えない湿気にはかなわない。
蝉がうるさい。その叫ぶような音を浴びながらゆるい坂を上った先に、子供が1人うずくまっていた。
調子でも悪いのかと近づくと、それは、秀家もよく知る子供だった。
「何をしているのだ」
うしろから優しく声をかける。首だけで振り向いた子供は秀家の姿を認めると慌てて立ち上がった。
「うきたさま」
慌てなくても良いぞと頭を撫でてやれば、はにかむのが可愛らしい。
「そんなところにしゃがみこんで、どうした」
尋ねると、また子供はくるりと身を翻して、先ほどと同じように、ちょん、とかがんで言った。
「これです」
そこにあったのは
「蝉か、」
そこには、仰向けに転がった蝉、いや、蝉だったものがあった。
子供は、じいっと蝉を見つめて言った。
「何ゆえせみは、このように、あわれになきがらをさらすのでしょうか」
そう子供が言う間にも、これから悲しく散っていくだろうセミたちの力強い叫びが青い空に吸い込まれていく。
秀家は自分が似たようなことを誰かに聞いた日を、それに応えてくれる人がいた日を、紐をほどくようにそっと、思い出した。
―――――
それはまだ秀家が岡山の城で、自分を愛してくれる人に囲まれて生きていたころの話だ。
庭で遊んでいた秀家は足もとになにかいるのに気が付いた。
(せみだ!)
しかしよく見るとそれはひくりとも動かない。つついてみても、つつかれたまま軽くころころと揺れるだけだ。何とも、情けない。
しゃがみこんで、その乾いた茶色の腹と、きゅっと縮こまった足を見つめる。こんな風に死ぬ虫が他にいるだろうか。
幾日も懸命に鳴き続けて、鳴き続けて、その最後がこんなに情けないものではかわいそうだと思った。この世の何ともいえない切なさを、死んだセミのまるい瞳のなかに見つけてしまったような気がした。
「なにしてはるの」
秀家がひとり物思いに沈んだとき、後ろから聞きなれた声がした。
「やくろう…」
城を出入りしている、小西弥九郎という人物だった。何をしに来ているのかは知らなかったが、いつも面白い話を聞かせて、遊び相手になってくれる彼に秀家はとても懐いていた。
そしてそれから、自分にとってとても大切な人になるのだけれど、当時まだ子供だった秀家には、そんなこと知る由もなかった。
「蝉ですか」
隣に弥九郎がしゃがみこむ。秀家は静かに頷いた。
「なぜこのような死に方をするのだろう」
木に止まるでもなく草に隠れるでもなく、地面にころりとその腹をさらして。
「一生懸命、鳴いていたのに」
夏の日差しが、さらされた秀家のうなじをじりじりと焦がすように照らす。
頭に優しい手のひらを感じた。
「一生懸命、鳴いていたから、」
期待していなかった返事に驚いてそちらを見れば、弥九郎の横顔には微笑があった。蝉の声が遠くなる。
「悔いることなどないのでしょう」
吹き抜けた風が汗を少しだけ冷やしていく。
「死に方など、気にしていないのでしょう」
そういって、こちらを向いた。その顔がとても、優しかった。
「自分のつとめを、きちんと果たしたから」
蝉の声が、またじわじわとうるさくなる中で、きこえた、「弔ってあげましょうね」という声にこくりと頷く。
日差しで熱くなった頭を、少し大きな細い手が労わるように撫でてくれた。
あの優しい手のひらが、失われてしまって、もう、どのくらい経ったのだろうか。
―――――
「一生懸命鳴いていたのに」
それがいつかの自分の言葉なのか、目の前にいる子供のものなのか、判断するのに時間がかかった。
しゃがみこむ子供の横に自分もしゃがみ、秀家はあの時の彼の言葉舌にのせる。
言いながら、自分の生き様を思った。彼はどんな気持ちだったのだろうか
撫でた子供の頭は思っていたより小さかった。彼の手のひらにおさまった自分の頭も、こんなに小さかったのだろうか。
まるで儀式のようにあの時を繰り返す。子供と一緒にせみを土に埋めていく。
〝悔いることなどないのでしょう〟
頭の奥から声が響く。
〝死に方など気にしていないのでしょう〟
彼の亡骸に手を合わせることすらできなかった。
〝自分のつとめを、きちんと果たしたから〟
少し山になった蝉の墓に、子供がそっと手を合わせる。それに倣って手を合わせるとき、脳裏に彼の笑顔が浮かぶから、つむった瞼に力がこもる。
(彼は果たしたのか)
自分のつとめを。悔いなき人生を。
(自分は果たせたのか、果たせるのか)
今なお鳴く蝉が自分の最後を知らぬように、秀家にもまた、それは分からなかった。
蝉はただたださわがしく、その音は変わらず青い空に吸い込まれていくだけだった。