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夕暮れのころ、部屋に差す夕日をその頬に受けて口に馴染んだ題目を唱える清正は、背中で誰かの気配を感じて、口の動きを止めた。
「何の用だ」
自分がこうしているときに邪魔をしてくるような人物は一人しか思い浮かばないのだが、その人物がすぐ近くにいるだなんて思いたくはなかった。
返事もせずに近寄ってくる気配に苛立ちは増す。たった一人の人物に乱される自分の心にさえ、苛立つ。
そんな清正の内心を知っていないはずはないのに、気配だけは全開にして近づいてくるのは隣の宇土城の主、その方を振り返るのも癪に障ると清正はそのままの姿勢で相手を待ち受けた。
二人の距離が一尺ほどになった時、近づいていた気配がぴたりととまる。わずかに流れた沈黙の後に、清正の、一番嫌いな声が部屋に響いた。
「話聞きに来ただけやん、そんな嫌がらんといて」
「お前にする話なんかないぞ」
「傷つくわぁ」
もちろん、清正の言葉に傷つく行長ではない。それがわかっている分、侮るようなそのしゃべり方も嫌だと奥歯をかみしめた。
沈黙を待たずに、行長は続ける。
「朝鮮で虎退治をしたって、ほんま?」
そんな清正に、頭の隅にもなかった話題がふりかかる。信じていないような口ぶりはきっと清正を挑発しているのだろう。
今更そんな話を出してきて、何を企んでいるのかと、行長には見えないところで清正は眉間にしわを寄せた。
「だったらどうした」
相手の思惑に乗ってやるものかと適当な返事をする。
「ほんまかいな、お虎が虎退治!」
わざとおどけた声を出して、こいつはどこまで人を馬鹿にするのか、思わず振り向いて睨み付けてやりたくなるのをぐっとこらえて瞼を閉じる。
「なぁ、おせぇてな」
一尺ほどしかなかった距離がまた縮まっていくのを感じる。
「虎退治のやりかた」
返事はしない。目を閉じたまま、清正は相手の気配背中で受けてその動きを待っている。
「俺にも退治せなあかん虎がおるんや」
なぁ、虎之助
行長はその名前を呼んで、清正の肩に触れようとした。その手をぐ、とつかんで、清正はその体を固い床に押さえつけた。
床に半ばたたきつけられたというのに、行長は平気そうな顔をしているから予想通りの展開なのだろう。清正にとっては、気に障ることばかりだ。
「お前に虎退治などできるか」
自分でも驚くほど低い声が出た。腹が立つ。こんなに弱い腕で〝虎退治〟など。
「虎がどんな風に獲物を仕留めるか知ってるか」
こちらを見たまま目をそらさない行長に、弱いくせにと内心毒づいた。
「さぁ」
相変わらずとぼけたふうにいう行長を、清正の眼は許さない。その瞳に炎がともる。
「俺が虎だったら、今頃もうお前は死んでいる」
清正が大きく口を開ける。自分自身、いったい何をしているのかよくわかっていなかった。ただ、自分の中にある本能のようなものが、目の前の白い首にかみつくのが当然だというように信号を送って、まさに自分が虎になったような感覚がする。
しかし、その尖った犬歯が行長の頸に届く前に、その感覚は霧散した。なぜなら自分の首元に添えられる刃物の感覚に気が付いたからだ。
二人の間に緊張が走る一瞬だった。清正が噛みつくのが先か、行長の手にある短刀が刺さるの先か。
そのどちらも正解ではないと、清正はその歯をひっこめて、ざらりと目の前の白い頸を舌でなぞった。
「ッひ!」
その瞬間、小西の方からも緊張感が消えて、なにすんッ!と悲鳴が下から聞こえてくる。
それを聞きながら清正は行長の上から退くと、いつものように感情のこもらない目で行長を見つめた。
「ばかばかしいことを考えていないで、さっさと帰れ」
「・・・つれないな」
そういいながら行長は、まだ舐められた部分が気になるのか、忌々しげに、予想外やったわと首を拭っている。
その不本意そうな顔が、少しばかり清正の苛立ちを抑えた。
「くそ、虎退治は失敗やった」
「その気もないくせに」
「あ、ばれてた」
残念、と軽く言う行長は物騒な短刀をしまいながら立ち上がる。そして、清正の横を通りすぎた出口の手前でくるりと振り返ると、にやりと笑ってこう言った。
「でも、久々にいいもん見たわ」
ほなな、そう言って消えていく行長の背中をじっとみつめながら、清正はさっきの白く細い頸を思い出していた。
しかしその時、世界を赤く染めていた夕日が沈んで濃くなる影の中、行長が清正の瞳に一時宿った炎を思い出して背筋を震わせていたことは、知らないままである。PR -
夏が温めた大地を冷まそうとするかのように、風が少しずつ冷えていく。毛利勝永は、そろそろ着るものも考えねばなるまいと思いながら、庭に出ようというところで、風の音に何かが混ざっているのに気が付いた。
(・・・これは)
伸びるように響く音、いや、これは。
(声・・・歌、か)
それは慣れ親しんだ旋律とは違うし、言葉も国の言葉ではないから聞き取れない。だけどどこかで聞いたことがある気がした。音をたどるように出た庭先に、見慣れた背中を見つける。
(明石殿、)
そう大きな声で歌っているわけではないのに、開いた喉から溢れるように出る歌声は良く通った。これを自分は、どこで聞いたのだろうか。
冬の訪れを告げる風が、明石の歌声と絡んで空に昇っていくようだ。言葉の意味など分からないはずなのに、なぜだか胸が痛むような気がした。
気がつけば足を止めていた。その歌声を聴いていた。何かを思い出そうとしていた。かつて、同じような景色を見たことがある。冷えはじめた風を受けて、異国の旋律を奏でる悲しみの混じる声、何かを諦めるような、祈るような。
「毛利殿、」
すうっと止んだ歌声に顔を上げると、名前を呼ばれた。
「あぁ、すまない」
邪魔をした、続けてくれ。そう告げても、明石は少し困ったような顔をするだけだった。
「続けてくれと言われましても」
聞かれているのを知っていて大声で歌えませんよ、その苦笑いを見てはじめて、自分がこの後もこの歌声を聴こうとしていたのだと気が付く。
「そ、うだな、失礼した」
日が少しずつ傾いていく。影が長く伸びる。空に溶けていく歌声をもう少し聴くことができれば、なにか思い出せそうな気がするのに。
「・・・キリシタンの、か」
「えぇ」
吹いては止んでを繰り返す、冷たい風が頬を撫でて、髪を、袖を揺すって過ぎていく。どうして自分がキリシタンの歌う歌を知っているのだろう。どうして。
「・・・主が」
話を始めたのは、明石だった。主、というのは多分、いや、絶対だが、宇喜多のことだろう。今は八丈島に流されて、会うことは叶わない。
「気に入っていて、良く歌いました」
その言葉を聞いたとき、脳裏に甦る言葉があった。苦い笑顔が、あった。
〝これをよく歌ってたんだよ〟
誰が言っていたのだったか。誰を思っていたのだったか。
「今日は風が吹くから」
そう言って、明石が空を見上げるのに、一緒に視線を上へと上げる。少し前まで、夏の熱気に滲んでいた青空はいま、高く澄んで見える。日が落ちて、もうすぐ赤く染まるだろう。
「届けば、いいと思って」
誰に、なんて聞けはしなかった。あの時も聞けなかった。
(あぁ)
そうだ、あれはあの時だ。関ヶ原の戦いに負けて、熊本の加藤家に世話になっていた時のことだった。
風が吹いていた。聴きなれない旋律がささやかに耳に届いた。キリスト教徒でないどころか、熱心な仏教徒ではなかったか、と疑問を思っても何も言わないでいたが、こちらの不思議そうな眼差しに、感づいたのだろう。
『・・・弔いだ』
そう言って、彼、加藤清正も空を見上げていた。そこに、思う人がいるような顔をしていた。
『キリスト教徒に念仏唱えても、しょうがないだろ』
そう言って、空を仰いだまま目を閉じた。そして、異国の旋律をそっと紡いでいた。それは多分ごく短い一節の繰り返しで、音程も不安定ではあったけれど。
『意味、は』
あんまり切なく響くから、思わず尋ねたのに、返ってきたのは苦笑いだった。
『知らねぇな』
吹く風は冷たくて、旋律は切ないのに、どうしてか、ほのかに、優しいような甘いようなにおいがした気がした。
『これを良く歌ってたんだよ』
誰が、とは、聞かなかった。聞けなかった。たぶん、あの人だろうと、そっと心の中で思った。
〝きっと届きましょう〟
それは、その時自分が加藤にした返事だったのか、今、明石に向けた言葉だったのか、あいまいなまま前を向けば、明石が微笑んでもう一度歌い出す。
冷える風に絡む切ない旋律は、高く天に昇り、甘い苦い記憶がぐるぐると渦をまいて。最後には優しい声が、思う人に届くだろうか。
(冷えるな)
自分が優しい声を届けたいのが誰なのか、考えようとして、やめた。 -
馬のいななきが聞こえた。
来客の予定もないのに、それは確かに自分の屋敷の門外から聞こえていて、荒木村重、もとい道薫は腰を上げた。
もう、随分寒くなった。
戸を開けて門に進めば冷たい空気が頬を撫でる。青く澄んだ空は山に向かって赤く染まる。夕暮れは近い。
蹄が地面をたたく音が数度聞こえて、止んだ。その上から聞こえてきた声は、予想通りの音をしていた。
「もし、少し手伝ってくれませぬか」
連絡なしに押しかけたものとは思えない、堂々とした、しすぎたその態度。
「また、一人で来たのか」
馬を一人で降りられないのはお前のせいだと言われているような気がするのは、自分の思い過ごしだろうか。
「えぇ、一人の方が何かと動きやすくていい」
馬から降りようとするのにそっと手を添えれば、彼の身体は冷えていた。
「貴方もご存知でしょう」
そんなことを言って、笑う。以前酷い目にあわされた人間に体重を預けて、賢い彼が何を考えているのかなど分からなかった。
「官兵衛…」
「お手紙にもしたためた通り」
どんな局面でも余裕を失わないこの表情を、ついに乱すことはできなかったあの日を思い出す。
「思い余って会いにまいりました」
二人の間に吹く風は冷たいのに、眼差しが熱くて寒さを忘れた。
***
狭い茶室に大人の男二人入ってしまえばもう随分狭かった。窓も小さくただでさえ薄暗いそこは、夕暮れ前に、まるでこれから水底に沈む船のような不思議な暗さがある。
沈黙の中に、さ、さ、と茶筅の音だけが響いていた。その音もやがて止まって、音もなく差し出された茶碗も暗い色をしている。
薄暗い茶室に輪郭が溶けてしまいそうで、見失う前に手を伸ばせば、思っていたよりも暖かくて、官兵衛の冷えた指を温めた。
茶碗を顔に近づければいい香りがして、口に含めば苦かった。それでも暖かさが嬉しくて飲み干せば、腹の底がぬくぬくして心地よかった。
ときおり木々の間を吹き抜ける風で枝葉が乾いた音をたてる。窓の外を仰げばもう随分朱い。
「寒くなりました」
「あぁ」
ようやく聞こえた低い声に安心する。顔を見れば、喜怒哀楽の読めない無表情だった。
「お加減はいかがですか」
「おかげさまでこの通りだ」
ようやく、すこしいらいらした様な気分をその言葉に見つけて、変わっていないなと少し安心する。
「それは、何よりです」
外は次第に暗くなっていくから、最初淡く見えていた影が少しずつ輪郭を失っていく。
「家の奴らは知っているのか」
「今頃血相を変えてこちらに向かっているでしょうな」
笑顔でそう返事をすれば、硬かった表情が少し緩んで、呆れた、と言うような顔をした。
「またお前は、」
「そうでもしないと」
それまで微笑んでいた瞳にきりっと力を込めて、見つめ返す。睨み付けるような眼差しに、応じる道薫の瞳の中にもめらりとわずかに炎が宿ったようだった。
「私は貴方に会えない」
外で鳥が鳴く。日は沈んでいく。もうしばらくしたら、きっと迎えが来る。
ほんの数刻ではあるが、ここには二人しかいないのだと、それを伝えたくて、瞬きも惜しんでその瞳を見つめた。
諦めたようにため息をついた村重は、一度立ち上がり、膝と膝がぶつかるくらいのところに、座した。
「痛むか」
道薫の右手が、官兵衛の左足に伸びる。布越しに伝わるごつごつとした体温が懐かしかった。
「もう慣れました」
そう言って道薫の手に自分の左手を重ねれば、それまで曲がらない足を見つめていた顔がこちらを向いて、その表情はらしくなく情けなく歪んでいた。
「そうか」
言いながら、今度は左手が頬に伸びた。先ほどと同じように官兵衛は、その左手に自分の右手をそっと重ねた。
冷えた部屋の中で、重なった部分だけがじわじわと温度を上げていく。
「謝らんぞ、俺は」
絞り出すような声で、顔をゆがめて、優しく触れながらそんなことを言う。謝らないのは罪の意識がないからではないことは分かっている。
許されることを酷く恐れているのだと、知っている。
「私だって、許したりはしない」
重ねた手はそのまま、見つめ合う。かすかに甘い体温を分け合って尚、謝らないこと、許さないことが二人をきっと永久にも繋ぐ。
どちらともなく、顔を近づけた。もう部屋はすっかり暗くて、目を閉じても景色は大して変わらない。
唇と唇が優しく触れ合った。それは重なったどの部分よりも熱かった。
そのせいで、離れたらその瞬間に冷えて乾くような気がして、もう一度重ねた口付けはさっきより深い。抹茶の苦味を道薫の舌がさらっていくせいで、随分甘く感じる。
水底に沈んだように暗い部屋で、お互いの吐息を奪い合う。しかし離れがたくても、水中で呼吸などできないのだ。
近づいた時と同じように、どちらともなく、名残惜しげに唇と唇は離れていく。目を開くと、闇に溶ける寸前の境界線が消えそうに揺らいでいる。
「苦いな」
離れた道薫の口からそんなささやきが漏れる。その顔はようやく、見慣れた意地悪な笑顔だった。
つられて、顔がゆるむ。私は甘く感じましたよとそう、冗談でも言おうと思ったその時だ。
「来たか」
門外が俄かにざわめく。その時、何事もなかったかのように離れていく道薫の体を、追いかけることはできなかった。
「そのようすね」
外に出れば、もう星もきらめくだろう。松明もある。きっとこの部屋より随分明るいのだろう。
もうここから出ていかなければいかないと二人とも分かっているのに、座ったままどちらも動かなかった。
このまま二人は闇に溶けてこの部屋は空になる。そんなことを考えながら、ざわめきの到来を待つのも悪くはなかった。 -
「お前、親父に似てきたな」
いや、もともとよく似ていた。髪の色も、目の形も、顎の曲線、骨格も。
随分昔に、こんな風に、良く似た顔を見上げたことがある。
***
夜だった。これから親の仇を討とうという時だった。だから、確実に北条を味方につけなければならないと焦っていたのだ。
戸が開くのを、待っていた。北条氏綱という男がこの部屋に入ってくるのを、まるで夜襲をかける時のような心持で待ち構えていた。
廊下を歩く足音が聞こえる。
(父上…)
震える身体を叱咤して、姿勢を正す。目を据えて、戸の向こうをじっと見つめた。
「…」
戸を開けた瞬間、彼が目を見開くのがわかった。不愉快そうに眉間にしわを寄せる。
「何の用だ」
戸を閉めないでいるところを見ると、どうやら随分警戒しているらしいのがわかった。
「ご安心ください、お命頂戴、なんてことは致しません」
そういって、その手に何もないのを、両手を広げて見せれば、ようやく戸を閉めた。敷かれた布団の傍らに座る義堯を睨み付けるその眼は、そのまま。
「もう眠い。話なら明日に」
「話ではございません、おもてなしを」
そう言って、義堯は、立ったままの氏綱をじっとりと下から見つめた。それにため息をつきながら、氏綱が向かいに腰を下ろす。
「悪趣味だな、女ならまだしも、」
「目は…」
言いながら、その眼を伏せて、向かいにある氏綱の右手を、そっと手に取る。そしてその手を、自らの頬に導いた。
「よく似ていると言われました」
伏せていた目をそっと、開けて、眼前の双眸をとらえる。
「父に」
目の前にいる北条の当主と、父親がどういう関係だったかは、正直はっきり分からない。でも、覚えているのだ。父がこの男の背中を見つめた時、瞳に何らかの熱が宿っていたことも。
父の死を知った、目の前の男の能面のような顔に、一瞬衝撃と悲しみが走ったのを見たのも。
「お楽しみ、いただけませんか」
そう言って、ほほに寄せていた彼の手を襟へと運ぶ時、そっとその手は、義堯から離れた。
「見くびるな」
冷たく放たれたその言葉とは裏腹に、その眼差しが寂し気で、なんであなたがそんな顔をするのだと、思った。
「生娘のように、震えているくせに」
さっきとはちがう、優しい声で、慰めるように、暖かい手のひらが、今度は自分の意志で義堯の頬を撫でる。
「男など、知らないのだろう」
まるで父親が子供をあやすような苦笑いで、今度はその手が頭を撫でた。この間亡くしたばかりの温もりがじわじわと戻ってくるような、錯覚がある。
「あれとお前は、一つも似ていないよ」
そう言う顔が、声が、やっぱり優しかった。でもその中に、先ほどまでなかった切なさを見つけてしまう。あれ、なんて呼ぶのに、どうしてそんなに愛おしげな声になるのだろうか。
「似ているとすれば―」
そういって、抱き寄せられる。自分を抱きしめているのは全くの別人なのに、思い出すのは、優しい潮の香りと、夕日を跳ね返す乾いた髪、自分を守ろうとする父の、笑顔。
「俺を利用して家を守ろうとするところくらいだ」
絞り出すような声と一緒に、強く抱きしめられる。
(いざとなったら、北条氏綱を頼りなさい)
本家に出向いて殺される前、いつものように潮風を浴びて笑った顔が忘れられなかった。あの時どんな気持ちで、いたのだろう。
どんな気持ちで、笑って、彼の名前を舌にのせたのだろう。
「さねたか」
耳元で、唸るような声が聞こえた。泣き声のようなつぶやきだった。それは大切な、父の名前だった。
もうここには、いない人の名前を久しぶりに聞いて、それまで不思議と流れなかった涙が、流れた。
「お前が、私を殺しに来ても」
頭を撫でる、手のひらの優しい温度は初めてのはずなのに、どこか懐かしい。
「文句は言わん」
今は眠れよ、そう言われて、張っていた気が一気にどこかにいって、体から力がすべて抜けてしまった。
その日は年甲斐もなく、父親より少し若いだけの男の胸の中で、親子のように眠った。
***
「親父って、私の父ですか」
「あぁ」
昔のことをぼんやりと思い出していたら、思いのほか真面目な声が聞こえて返事をする。
「…義堯殿、父と一体何を」
別に何をしたわけでもないが、説明するのも面倒だし、妙な感傷が戻ってきそうだから、言わないけれど。
「…添い寝してもらっただけだ」
「添い寝…」
複雑そうな顔をする、その顔を見て思う。
「いや、やっぱ似てないわ」
俺を抱こうとする悪趣味はお前ぐらいだからな、そう睨み付けてやれば、抱きしめられた。
その腕の熱さも、あの時とは全く、違った。
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浅い息が途切れながら小さく部屋に響いている。小さな灯り一つの部屋に、二人分の影が重なって伸びていた。
「まったく」
自分より少しだけ小さい背中を後ろから抱き込んで、又兵衛は意地悪な溜息を長政の耳に吹き込んだ。
「こうやって溜めるから」
その手のひらは長政の雄を上手に握りこんで、的確すぎる快感を産みだしていた。
「イライラするんじゃないですか」
水気が増すせいでどんどん卑猥な音が大きくなっていく。
「う、るさ、あぁ」
まだこのふざけた行為が始まってそう時間は経っていないのに、簡単に高まってしまう自分の体が情けない、と長政は思う。
男に、こんな風にいいようにもてあそばれて、悦ぶ身体なんて欲しくなかった。
「我慢はよくないですよ、若」
直接鼓膜に触れるような、耳の奥に響くその声に、背中がぶるっ、と震える。
「ま…たべぇ…ンッ…」
そして、長政は又兵衛の手のひらに欲をぶちまけた。
(いつまで、)
吐き出した瞬間の眠気に抗うことはできずに、重くなる瞼に抵抗する力はなかった。
(いつまで、こんな)
こんな意味も理由も分からない行為が続くのか、そう一人心の中でつぶやく長政の、力の抜けた体を支える又兵衛の胸の体温が背中に伝わって、それだけは優しい気がした。
無防備に自分の胸に体を預ける長政に苦笑いしながら、汚れた自分の手のひらを拭って、そっと寝かせた。
こうして主君の性処理を、無理矢理買って出るようになってもうしばらくたつ。こういう行為をあまりしない彼を弄ぶのは簡単で、無駄な抵抗して体力を使うのか終わるとすぐ眠ってしまうから気まずくならないのが好都合だった。
無防備すぎる寝顔を見ながらその頬を撫でたくなる衝動を、優しく甘やかしたくなる欲望をぐっと押さえて立ち上がる。
「またべぇ」
引き止めるような寝言に後ろ髪を引かれながら、起こさないようにそっと扉を閉めた。
今のように自分の名前を甘い声で呼びながら、一人で切なく喘ぐ長政を見つけてしまったあの日を、思い出しながら。
////////////////////
その日はどうにも長政の様子がおかしかったのを覚えている。なかなか嘘がへたくそな若者で、明らかにそわそわしているのは家中のほとんどが気付いていたと思う。
だから夜、部屋に向かったのだ。まさかあんなものを見るとは少しも考えずに。
部屋の前、灯りが薄くともっているのを確認して、声をかけようと息をすうっ、と吸い込んだその時、沈黙の中にかすかに声が聞こえた。
苦しそうにも聞こえるが、荒い吐息に甘さが混ざっている。思わずごくりと唾を飲みこんだ。なぜだかここから離れられない。勝手に聴覚が研ぎ澄まされている。
(名前…?)
喘ぎながら、誰かの名前を呼んでいるようだった。それに気が付いた瞬間、捕えがたい嫌な感情にぼつりと火が付いたのがわかった。いったい誰の名前を。
「っあ、た…」
ここにとどまっていいことなど一つもある気がしないのに体が動かない。この若い主の秘密を一つ暴かなければ気が済まない。
だから耳を澄ました。自分の行為がどこかおかしいというのは、その時は分からなかった。
呼吸の音さえ聞こえる。自分の血が一部に集まるのを制御できないほどに、興奮していた。
そして、扉の向こうの薄明かりから、聞こえたのは。
「また、べぇ」
確かに彼の声帯はそういって切なく震えた。得体のしれない満足感が、又兵衛を襲った。
だからその扉を、開けた。
「呼びましたか、若」
その声に絶望と羞恥と興奮をないまぜにしたような顔をした長政の乱れた姿を、今もまだ鮮明に思い出せる。思い出すだけで頬が緩む。
「手伝ってあげますよ」
手を伸ばしたその体は、思っていたより熱かった。
それから機会をみては成熟したてのまだ少し幼さの残る肢体を弄んでいる。
そろそろ、手のひらに、感触が染みつきそうなくらいには。
////////////////////
長政はすぐに追い詰められる癖に、相変わらず抵抗をやめない。
今日も懲りずに又兵衛に追い込まれて、いやだやめろと言う癖に、突き放すことができないでいた。
「っも!やめろッ」
ぐちぐちと自身を直接握りこむ大きな掌とは別に、もう片方の手がうちももをさするから足がびくびくと勝手に震える。
「やめろって、このままだとつらいのは若ですよ」
もういきそうなくせに、一度だって素直に快感に身を任せたりはしない。その態度が好ましく、そして煩わしい。
「う、るさ!あンッ」
「じゃぁ」
する、と長政の弱いところをひとつさすって、手を離す。しかしその両手で長政の太ももを左右に広げて、あられもない姿にする。
「自分でやってみてください」
又兵衛の耳に、息を飲む音が聞こえた。
「ッ!なんで!もういいだろ」
離せよと相変わらず強気な態度は想定済みだ。
「ここをこんなに固くして、そのまま寝られるんですか」
先ほどまで又兵衛に撫でまわされていた長政の雄は未だ天にむかって直立したままだ。ちょんちょんとつつけば長政の顔がゆがんだ。
「私に触られたくないなら、自分でさっさと終わらせたらいい」
耳に口を付けてそう言えば、単純な主君は自分の手のひらで、熱くなったそれをぎゅ、と握りしめた。
「ふっ、ううん…ッ…」
遠慮がちな水音がぐちゅ、ちゅぷ、と響いている。又兵衛は何も言わずにただずっと長政を見ていた。
「ん、ん、ふぅ…ウッ」
懸命に動かす手のひらの中、しかしそれは次第に萎え始めている。
「…若は」
又兵衛の手が長政の手をそっと包んだ。かと思うと、その一回りだけ小さな手ごと、長政の雄を激しく扱き始めた。
「…ッ!?ふぁッ…やぁ…」
また熱を取り戻すそれに、又兵衛がチッ、と舌打ちした。
「誰かに触られないと気持ち良くなれないんですか」
先ほどとは打って変わって、ぐちゃぐちゃと激しい音が部屋に響く。
「ちがっ!ちが…ッ!うぅっん!やぁあ」
否定しようとするのは口だけで、体は又兵衛の与える刺激にふるふると震えていた。
「どこでこんないやらしい身体になったんですか」
声が喘ぎにしかならないから、長政は、必死に首を横に振る。しかし又兵衛はそんな姿をあざ笑うような声で続けるのだ。
「自分で触るだけじゃぁ、駄目だなんて」
言いながら又兵衛の腹の底には、苛立ちがふつふつと生まれていた。
(この肌に触れた誰がが俺以外に、いる?)
攻める手が乱暴になる。合わせて長政の息遣いが荒くなる。自分の知らない長政が、心に大きな影をつくっていく。
「ッまたべ!またべぇ」
長政は何時も達する前に名前を呼ぶ。その声に引き戻されて少し強く刺激すれば、背中がびくりと突っ張って、そして力の抜けた体を自然に又兵衛に預けた。
苦しさと快感に歪んでいたのが解放されて、力が抜けたその表情はその安らかさに対してひどく扇情的だ。
軽くはないその体を寝床に横たえる。
「…だれに、」
苦虫を噛み潰したような顔を伺う人などいない。又兵衛のつぶやきは闇に消えた。
[newpage]
「長政はいるか」
久しぶりの出陣で黒田家が構えた陣に、聞きなれない声が響く。見慣れないその男は立派な戦装束をまとって堂々と、ずかずかと入ってくるから、屯していた足軽たちがざわざわ騒ぎ出す。
官兵衛はじめ黒田家家老の諸将はそれなりに忙しくしているからここにはいない。まずいな、と思いながら又兵衛はざわめきの中心に向かった。
「どなたか」
そう言って仰いだ顔に、見覚えは、あった。
「福島、といえばわかるか」
そこにいたのは、豊臣子飼いとして武功をあげ、ここのところぐんぐん出世しているという、福島正則その人が、いた。
「何の御用でございましょうか」
「長政はいるか」
その、顔は若さと自身にはちきれそうで、武士という言葉をそのまま人間にしたような男だと思った。
その男の口から気安く発せられた名前に、なにか嫌な気持ちになる。素直に案内する気持ちになれなくなる、自分の気持ちを持て余している。
「若…長政様は今官兵衛様と軍議をしておられるかと」
嘘ではない。しかし福島の名前を出せば呼び出せる可能性もある。いつもだったら自分はどうしていただろうか。同じように突っぱねていた?それとも伺いを立てたか?自分の判断の由来に思い当るのが怖い。
「…そうか、まぁ急用でもないしな」
その言葉に安堵する。しかし、跪いている又兵衛の眼前からその両足は消えない。
「お前、名は又兵衛か」
頭上からかかった声に、顔を上げると、背中に太陽の光を浴びて微笑んでいる。逆光でくらい顔の中で瞳がキラキラと眩しい。
立て、といわれて立ち上がると、その顔が良く見えた。
「長政が又兵衛、又兵衛とうるさいから、どんな男かと思っていたが」
値踏みするような表情ではない。相手からは敵意は感じない。意識しているのはきっと自分だけだ。
「長政が騒ぐのも無理ないな」
いい男だ、そう言いながらばしばしと又兵衛の肩を二つ叩いた。かと思ったらその手のひらで、叩いていた肩をぐっとつかんで又兵衛の体を引き寄せた。
「長政をあんまりいじめてくれるなよ」
大事な弟分だ、そう言う顔に真剣みが差す。
「確かにあいつは可愛くないてくれる、が」
その言葉に背中を殺気が走る。言葉の意味を図りかねて、相槌で冗談に変えることもできない。
「優しくしてやった時の顔の方が可愛いぜ」
そういって、にやりと挑発的に笑った。知らず拳に力が入り、思い切り握りしめていたのに気が付く。
「何のお話か、分かりかねますな」
思わず睨み返すと、真剣だった眼差しをおどけた表情に変えて、おお、こわい、と又兵衛と距離を取る。
「まぁ、長政によろしく言っといてくれ」
そう言って、来た時と同じようにドカドカと去って行った。
又兵衛はその背中が見えなくなるまで、睨み付けていた。
////////////////////
「そう言えば先日の陣中に福島殿が見えられましたよ」
あの時の戦が終わって、領地に戻ってきて数日たった。月を眺めながら酒を酌み交わす中で、又兵衛がポツリとそう伝えた。
「なんだと!なぜ案内しなかった!」
長政がこういう反応をするのはなんとなくわかっていた。だからだろうか、本当は話すつもりなどなかったのだ。しかしあんまり自分の胸につかえるから、話してしまえば楽になると、思った。
「若は殿とお話でしたし、福島殿も特に用事はないと」
「ずるいぞ又兵衛、俺も会いたかった」
素直に悔しがるその横顔に、人質時代を懐かしむのがわかって目をそらした。今日は月も雲に隠れて、少し暗い。
「福島殿の前では」
酒で少しだけ熱くなった、長政の身体をトン、と押す。倒れはしないが傾いた身体に体重をかければ動きを抑えることはできた。
「可愛く、なかれるらしいですね」
そう言って頬を撫でれば、その丸い瞳を見開いた。又兵衛はそれを、肯定だと思った。
「何、いって」
意地悪な顔をしながら、又兵衛は長政の身体を優しく撫でる。今までは触れなかったような性感を探し始めるその手に、長政は歯を食いしばった。
「どこにどう触れられて」
帯をほどく気配がする。
「どんな風に可愛くないたのか」
俺にも教えて、聞かせてくださいよ。そう言って又兵衛は長政の素肌に触れた。
首筋に口づけをしながら、左手はまだ薄い胸を撫でる。指先がその突起を探り当てて、ぐにぐにと捏ねはじめる。
右手は下半身に伸びて、褌の上から長政の雄に触れた。しかしするりと撫でるだけ撫でて、その手のひらは太ももに添えられた。
いつもはこうじゃない。又兵衛が長政を背後から抱き込んで、ただ一か所に触れて性を吐き出させて終わりだ。こんな、男女の睦言のような手のひらは知らない。
「ま、たべ?」
これから何が始まるのか怖くて、名前を呼べば、鎖骨を甘噛みして、顔を長政に向けた。
「若をこんな身体にしたのが、俺じゃないのが残念ですよ」
そう、つぶやく又兵衛の苦笑いはすぐに長政の視界から消えた。と思ったら、胸を激しく吸われて思わず息を飲む。
「ッ!?ひゃ!また、何っ!?」
じゅうじゅうと卑猥な音を立てて吸い付いたかと思うと、優しく舌先で転がし、噛みつく。もう片方はさっきから添えられていた又兵衛の左手がくにくにと捏ねる。違和感と痛みが少しずつ快感に変わっていく感覚が、怖い。
やめろと言いたい。快感は、こわい。しかし、酒の入った体のだるさと、慣れすぎた又兵衛の匂いに溺れたようになって、ただ弄ばれるしか、できない。
「わかりますか、若、固くなっているのが」
そういって、突起をペロリと舌先で舐めてから、太ももを撫でまわす右手が、褌の上を滑った。
「あっちもこっちも固くして、本当に」
仕方がないですね、そう言いながらその唇が長政の薄く割れた腹筋を撫でながら下に下がっていく。
「ッふ!」
その感覚がくすぐったくて、背中がのけぞる。肩が床に食い込んで、痛い。
「またべえ、だめ、だめ、あ、」
その唇がどんどん下がって、へそをかすめた。それよりも下は。
「なにがダメなんですか」
それとも、男の喜ばせ方も仕込まれましたか。
ひどいことを言われているのは分かるのに、言い返すこともできないままいいようにされている自分が情けなくて涙が出そうだ。
又兵衛が長政の褌に手をかけてするするとはぎとっていく。緩くたちあがった長政の雄に触れる空気が冷たかったのは一瞬だった。
「っ!ひゃぁ…ッぁ、ぁぁ」
冷たい空気が一変、熱い粘膜がそれを包んだ。経験のない感覚に背骨が逆側に湾曲してひときわ肩が床に食い込んだ。
太ももにさわさわとふれる又兵衛の髪の毛さえも長政に性感を与えてたまらない。先ほどまでいじめられていた胸がじんじんと痺れている。
「やめ、やめろ、いや、だ」
又兵衛の口の中で自分の肉棒と又兵衛の舌とが絡み合っている。いつも手で与えられている快感だけでもすぐに極まってしまうのに。
「はな、はなっ!せ!おいっい、んぅ」
又兵衛の口の中に出してしまうのが怖くてこらえるのに、そんな長政の思いをあざ笑うようにじゅう、と吸い付かれたら、もう駄目だった。
「あッ…!あ、やぁぁ、あ、ふ」
思い切り、吐き出してしまった。自己嫌悪と、理解できない又兵衛の気持ちに困惑しながらも、疲れ切った頭と体に途端にいつもの眠気が長政を襲う。
長政がいけば終わるのがいつもだったから、すっかり油断していた。
下半身の違和感に、沈みかけた意識が浮き上がる。今まで本当に誰も触れたことのないそこが、何かでしっとりと濡れていく。気持ちの悪さに閉じようとした足を、又兵衛が思い切り割開く。
「ま、たべ?」
応える声はない。その代わりに、後ろの穴を何かがつついた。
「っうん!?」
驚きに腰が震えて引いた。その腰を又兵衛が両手でぐいと引き戻して、また同じ場所に今度は何かが吸い付いた。
「こっら!よせ、何考えてん、だ!」
又兵衛は何も言わない。返事の代わりに何かが穴を犯しはじめる。又兵衛の舌が、ねじ込まれている。
「やぁ、何っ!何すんだっ…いぁッ」
これから自分がどうなってしまうのか、理解するのが怖くて考えないようにするのに、又兵衛はやめてはくれない。うちももが快感に震えるのも怖い。なのに。
「何って、ご存じでしょう」
そんなことを言いながら今度はその指をぐちぐちとねじ込まれる。少し慣らされたそこは、逆流する異物を思いの他簡単に受け入れてしまった。
(知らない、しらない)
こんな行為は知らない。快感は、怖い。
「誰のせいでこんな、淫らな体になったのか」
ぐちぐちと音を立てて、体内を犯す又兵衛の指の関節を感じる。奥に食い込めば食い込むほど、快感をとらえそうな体が長政を裏切っている。
「俺の、いない間に」
いやだ、ちがう、否定の言葉が頭の中で喚くのに、又兵衛にはひとつも届かない。こんな身体になったのは、快感が怖くなったのは。
「誰に触れられたのです、若」
その瞬間、長政は足に力をこめて又兵衛をけりつけると。その拘束から逃げ出して、自分の部屋へと逃げ込んだ。
着物のあわせを手繰り寄せて、部屋の真ん中にへたり込んだ。
「お前だよ」
扉の向こうに向けて、叫ぶ。
「俺をこんな風にしたのは、おまえだろうが!」
忘れたのか。
その響きは子供の鳴き声のようで、その時二人は同じ瞬間のことを思い出していた。
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それは、長政が人質として長浜に向かうことが決まってすぐのことだった。幼い跡取りとの別れを惜しむ空気の流れる黒田家は、数日少し、覇気がなかった。
そんなある日のこと、まだ手伝いの者も目覚めない早朝、又兵衛の眠る部屋をトントンとたたく音が控えめに聞こえる。
こんな時間に遠慮なくこの部屋に来るのなんて、一人だけだ。
「どうしたんです、若」
扉をあけるとそこには、今にも泣きそうな顔で寝間着を握りしめる松寿丸がいた。
「ッ、またべえ、」
その姿と足の様子から、大体の見当はついた。
「小便ですか」
短い又兵衛の問いにふるふると首を横にふる。早熟だなぁと頭のどこかで思った。
「まずふんどしを洗いましょう」
そういって小さな体にそっと手を伸ばすと、触れたところからふるっと震えた。
「大丈夫ですから」
いきなりの体の変化にとまどって混乱しているのだろう。どうしていいのかわからずに、両親でも他の誰でもない自分のところに来たのは兄弟のように育ったためか。
その姿がとてもあわれに思えて、部屋に招き入れるために手を差し出すと、大人しく自分のまだ小さな手を乗せるのが純粋にかわいらしいと思った。
大丈夫ですから、そう言いながら自分が今まで寝ていた寝床に腰掛けさせる。
「褌を替えますか」
そう声をかけるが、一向に褌を外す様子はない。湿って気持ちが悪いのではないかと思うのだが。
「汚したなら替えないと」
自分の褌を出しながら、松寿丸の背中に話しかける。その言葉にふるふると首を横にふるから、褌は汚れていないのだろうか。
「どうされました」
そう、後ろから顔を覗き込んだ又兵衛の目に映ったのは、目を潤ませて眉根を寄せて、性感に耐える顔だった。
「どうしよう」
だめだだめだと、心の中で声がするのに
「またべえ、」
こんなのは正しくないと理性が警鐘をならすのに
「たすけて」
又兵衛の腕はそっと松寿丸を包んだ。
「どうするか、私が教えてあげますね」
それが、幼い主君をあわれに思ったからなのか、自分の劣情に負けたからなのか、分からないまま熱をもった幼い性器に手を伸ばした。
何度も自分の名前を呼びながら、やぁやぁとなく声を聞きながら。
もう戻れないことを、どこかで覚悟しながら。
小さな耳にささやいた。
「この感覚を覚えておいてくださいね」
それはただの教示だったのか、自分の願望だったのか、持て余したまま放った言葉が、松寿丸を、長政を縛るとは思いはせずに。
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長政にとって、欲を吐き出すことは孤独の確認だった。
しようとすれば、いやでも又兵衛を思い出す。思い出すのに、あの時の手の感覚だけを追いかけてしまうからそう簡単には達せない。
だからその感覚を思い出したくて、名前を呼んでしまうからそのたびに孤独が膨らんだ。
気持ち良くなるだけでいいのに、終わってしまえば楽になるのに、時折思い出してしまう又兵衛の優しい眼差しや声に快感が中途半端に逃げるときさえあった。
ようやく終わった後には、汚れた自分の手のひらがそこにあるだけだ。やさしく拭ってくれる手のひらも、まどろむ身体を受け止めてくれる厚い胸もここにはない。寂しい。
(又兵衛はいない)
だからできるだけしたくない。するなら早く終わらせたい。
そう、思っていたのに。
あの日の痴態を、叫んでしまった名前を、又兵衛がどう思ったのかはわからない。ただ、またあの男らしい手のひらに触れられた時、終わった後又兵衛が傍にいた時、嬉しいと思ってしまう、自分が浅ましいと思った。
触れてほしいけれど、触れられたらおかしくなるから、触れてほしくない。拒むことはできない。受け入れることはもっとできない。矛盾した気持ちをこじらせて、もう疲れていた。
それなのに、あんなことを言うから。
「俺をこんな風にしたのは、お前だろうが!」
又兵衛以外に、この身体にあんな風に触れた人間など今までいなかった。触ってほしいと思ったのも、一人だけなのに。
「忘れたのか」
おもちゃにされているなら、孤独にはかわりなかった。
あの、優しい眼差しに会いたい。思いやりと欲情の間で揺れる又兵衛の身勝手さを幼いときに感じていたわけではなかったけれど、あの日性欲を逃がしてくれた又兵衛は確かに長政を助けてくれた。長政を大切にしてくれていた。
目の前の又兵衛を見つめても、焦点が合わなかった。
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忘れていなどいなかった。思い出さないようにしていた。
年端もいかない少年に、未来の主君に欲情したなんてことは、心の隅にもおいては置けない痛みだった。
だから、自分の名前を呼んだ長政に、喜んだのだ。求めているのは自分ではなくて長政なのだと思ってしまえば、自分の抱えた欲は暴かれずに、望みがかなうような気がしていた。
そうではなかった、と、うつろな瞳をみて思う。泣くのを諦めた瞳が渇いていく。舌打ちして座り込んだ体に歩み寄った。
「若」
両頬を両手で包み込む。黒目の奥に自分が映っていて、安心する。
「若、私が―」
額に額をくっつける。こつ、と皮を挟んで骨がぶつかる音がした。
「私が触れるものは」
又兵衛の右手が、長政の目の下の、柔らかいところを、まるで涙をぬぐうみたいに優しく撫でた。
「触れたいと思うものだけですよ」
そういって、弱弱しく半開きになった唇に口づけた。唇同士が重なるのは、これが初めてだった。
乾いていた長政の瞳にできた涙の膜は、瞼がおりて、そっと頬を伝った。
又兵衛の手のひらが、もう一度優しく長政の素肌を撫でた。
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「あ、あぁ、いっ」
長政の後ろはまだ濡れたままで、又兵衛の指をすんなりと受け入れてしまった。
「私は若に触れたいけれど」
指の本数がじわじわ増えていく。異物感に歯をくいしばる長政に、又兵衛は相変わらず意地悪だけれど。
「若は私にふれたくないですか」
その意地悪はさっきまでとは少し違うような気がする。
「わっ!わからんっ!どう、すれ、ッん、ば、いいのか」
方法がわかるなら自分だって又兵衛を追い詰めてやりたい。いかんせんやり方が分からない。
その言葉に又兵衛がつくため息は、呆れではなくて、安心と慈しみを含んでいた。それなら、と長政の瞼に口づけながら言う。
「どうするか、私が教えてあげまね」
その言葉に長政が目を見開いた時、いやな水音を立てて又兵衛の指が抜かれた。
「んぁっ…」
元に戻ろうと収縮する、それを阻む熱い何かが、長政の中に侵入してくる。
「あ、あ」
痛みがないわけでもない。しかし一方的に与えられる快楽よりはましだった。
「ふっ、ん、んん」
もう、嫌も、駄目も、言いたくなかった。内臓を圧す感覚に息がつまるけれど、分け合う体温がそれを癒してくれる。
そっと目を開けて又兵衛を見れば、眉間にしわを寄せながら荒い息をしていた。その、赤くなった唇からはぁ、と息が漏れた時の顔が艶めかしくて、体内に又兵衛が収まったことを知った。
腕を伸ばせば、頭を抱きしめてくれた。顔をうずめた首筋から又兵衛の匂いがする。
「又兵衛」
名前を呼べば、口づけをくれた。
「動きますよ」
その言葉にうなずいて、そこから先は痛みと快感でよくわからなかった。何度も突き上げられて喉から音が出た。ようやく快感を手に入れた時、それをもたらしたのは、長政の雄を握りこむ又兵衛の手のひらだけではないのをどこかで感じていた。
「この感覚を、覚えておいてくださいね」
もう、ここに、孤独は少しもなかった。
相変わらず、長政は、そういうことが苦手である。
しかし、又兵衛の触れる手を、受け入れることは、できるように、なった。